この言葉は
「鬼は外、福は内」
と言われる節分の豆まきにちなんで、鬼を私の煩悩(瞋恚:怒りの心)ととらえて述べられた言葉かと思われます。
例えば、顔を真っ赤にして怒っている時は赤鬼、青筋を立てて怒っている時は青鬼といったところでしょうか。
ところで、親鸞聖人は
「鬼」
についてどのように述べておられるのでしょうか。
その主著である
『教行信証』
では、真実の宗教を確認していかれる中で、
「鬼神」
ということを問題にされ、その鬼神の正体を中国の神智法師という方の言葉を引用して、次のように明かしておられます。
鬼之言帰尸子曰古者名人死為帰人又天神云鬼地曰祇也。
乃至形或似人或如獣等心不正直名為諂誑。
これは普通に読むと
「鬼の言は帰なり。
尸子に曰く。
古は人の死にたるを名づけて帰人となす。
又天神を鬼と云ふ、地神を祇と曰ふ也。
形或は人に似たり、或は獣等の如し。
心正直ならずんば名づけて諂誑(てんおう)となす」
となります。
意訳すると
「鬼という言葉は帰と読む。
尸子によると、古くは人の死んだということを名づけて帰人と言った。
天神を鬼と言い、地神を祇といった。
鬼は形は人に似たり、あるいは獣などに似せて表されることがある。
ただ、心が正直でないならば、諂誑(てんおう)と名づけるのだ」
と。
これだけでは鬼という言葉の説明をしているだけですが、親鸞聖人は独自の読み換えをして、より踏み込んで鬼の正体というものを明らかにされます。
「鬼の言は尸に帰す。
子の曰く。
古は人死と名づく。
帰人となす。
(以下は同じ)」
「尸子」
というのは人名か書名なのでしょうが、それを分けて
「鬼の言は尸に帰す」。
また
「尸」
という字には
「かばね」
という仮名を振られます。
尸を屍と同じ意味に使って、鬼の言葉は人間を死に追い込んでいくものなのだと読まれるのです。
次に
「古は人の死にたるを名づけて」
を
「古は人死と名づく」
と読み換えられます。
そして
「帰人となす」
と。
後は、同じように読まれて
「諂誑」
の横に
「へつらふ、くるう」
という解釈を施しておられます。
親鸞聖人は、人間を生ける屍に変えるようなものを“鬼の言葉”だと言われます。
つまり、人間を非人間化するものは、どのような形を取っていようともそれを鬼というのだと言われるのです。
これを昔の人は、
「人の死というのは、鬼の言葉によって起こるのだ」
と理解し、それを
「帰人となす(この帰は鬼と同じ意味)」
と言っていたと述べられるのです。
そして、それが具体的には天神という姿をとったり、地祇という姿をとったりすると明かされます。
これは、見える鬼の現われですが、もっと厄介なのは、鬼は形が千変万化だというところにあると言われます。
それが
「形或は人に似たり、或は獣等の如し」
という言葉です。
人に似ていたり、獣などの形を装っているので、それの正体が鬼だと見分けるのはなかなか難しいのです。
また、一番の問題は
「心正直ならずんば」
ということです。
心が人間であることに正直であろうとすることが無いならば、必ず鬼の言によってへつらい、くるわされていって、非人間化されていくということにあります。
では
「非人間化」
というのは、どのようなことでしょうか。
毎年その年の初めに、豊漁・豊作・事業の成功・天候の安定・家内安全・自身の健康などを
「形或は人に似たり、或は獣等の如し」
といわれる千変万化の鬼神に祈りながら、なかなか自分の思い通りにはならないのが私たちの現実です。
そこで、誰もが
「どのようにお願いすれば、上手くいくのでしょうか」
という問いを潜在的に抱えながら生きています。
これに対して親鸞聖人は『教行信証』の本文の最後を
「人いづくんぞよく鬼神につかへんや」
意訳すると
「人間はどうして鬼神につかえる必要があろうか」
という言葉で結んでおられます。
本来、人間は鬼神につかえるような存在ではなく、したがって鬼神にどのようにつかえればよいかというのは、問うべき問いではないと言い切られるのです。
あなたは、運勢、日や方角の善し悪し、手相、占いなどによって今日という一日を、そして自分の人生を決めようとしたりすることはありませんか。
また、不都合な出来事を運命だと諦めようとしたり、不幸だったと切り捨てようとしたりすることはありませんか。
けれども、はたしてそれは、人間として自立した生き方だと言えるのでしょうか。
人間は自立した存在であり、自由に生きていくことが本来のあり方です。
ここでいう自由とは、したい放題ではなく、選択の自由です。
どのような生き方をしていくか、それを自分が選び取り、その結果が上手くいってもいかなくても自身で引き受けていく勇気を智慧といいます。
一方、上手くいかないことを他に転嫁していくあり方を愚痴(ぐち)といいます。
親鸞聖人にとって鬼とは、人間の自立を奪い去り、生ける屍に変えるような存在であると言えます。
そのような意味で、
「鬼は私の中に」
というよりも、常に私の周囲を様々に形を変えながら取り囲んでいるのだと言えます。