寺の子ども会に来る子どもたちの中に、空手を習っている子どもたちがいます。
「道場」
という言葉をよく知っているその子たちが、こんなことを聞いてきました。
「子ども会のおたよりに、『お寺は道場です』と書いてあったけど、お寺って道場なの?」
これはいい機会だなと思って、その子たちと少し話をしてみました。
「お寺が道場って不思議に思ったんでしょう。
君たちはいつも道場で練習するからね。
でもね、お寺も道場なんだよ。」
というと、そろって
「そうかなあ」
という顔をして、
「お寺ってさ、お経読んだり、お話聞いたり、遊んだり食べたりするところだけど、道場とは違うと思う。」
「お寺では練習しないし。」
「厳しく怒られないしさ。」
という返事が返ってきました。
そうでしょうね。
彼らにとっての道場とは、道着を着て、厳しい練習をして、上達していくための場所ですもんね。
お寺って、道着も着ないし、厳しい練習もしませんし、子ども会では特に子どもたちをしかることもないので、道場だなんて思えなくて当然でしょう。
続けて話してみました。
「じゃあ、君たちにとって道場ってどんなところ?」
と聞いてみると、すかさず
「上手になるために練習するところに決まってるじゃん。」
「そうそう、強くなるための場所だよ。」
「そして、自分を磨くところだよ。」
なるほどね。
「自分を磨くところか」
と思いつつ、
「自分を磨くってどういうこと」
と聞いてみると
「うーん」
「・・・」
としばらく沈黙し考えこんでいましたが、
「先生方がそういうよ。
強くなるだけじゃなくて、自分を整える場なんだぞって。」
何と、今度は
「自分を整える」
という言葉まで出てきました。
「すごいな」
と思いつつ、さらに聞いてみました。
「自分を整えるってむずかしいけど、君らはどういうことだと思う?」
すると、今度はすぐに6年生の男の子が
「先生からは、どんなに強くなったからと言っても、相手を敬うこころを忘れちゃいけないんだって言われてるけど・・。」
相手を敬うという言葉が出てきたところで、ちょっと話を変えてみました。
「みんなはさ、どうしていつもお寺に来るの?」
「子ども会があるからだよ。
友達に会えるし。」
「子ども会はお菓子を食べられるし、楽しいし!」
何ともありがたいですね。
子ども会は楽しい、お寺は楽しいと言ってくれる子どもたちなんですね。
だからこそさらに聞いてみました。
「それだけ?お経やお話はどう?」
すると6年生が
「ごめーん、先生。
そんなに楽しくはないよ。
楽しくはないけど、大事なことを教えてもらっていると思ってるよ。
僕は頭が二つの鳥の話(共命の鳥・・いのちはつながりあっていることを教えてくれます)やシビ王の話(いのちに軽重はない、みんな尊いいのちであることを教えてくれます)が好きだよ。
僕ね、一人で生きてるんじゃないって、よく思うようになったよ。」
続いて4年生の弟が
「幼稚園の時からずっと、ごはんの時に
『みほとけと皆様のおかげにより』
って言ってるけど、その意味が分かってきた。
食べることは当たり前じゃないんだってことが今はよくわかるよ。」
よく聞いていてくれるのですね。
いのちのこと、いっぱい話してきてよかったなと思います。
「一人で生きているのではなくて、いろんないのちに助けられていることや、いのちが平等であることを知ることは、とても大切なことだよね。
それを知ることは自分を磨くこと、自分を整えることにならないかな?」
「うーん。
違うところもあるけど、同じところもあるかな。
相手を敬うこころを忘れちゃいけないっていつも聞くけど、仏さまもそう教えてくれてるしね。」
「じゃあ、仏様の教えを聞くお寺は道場といってもいいんじゃない?」
「といってもいいかもしれないけど・・。」
「それならば…」
ということで、
「一つみんなに謝らないといけないことがあるよ。
お寺は道場なんだけど
『聞法(もんぽう)の道場』
と言って、仏様の教えを聞いて、自分自身のこと、いのちのことを見つめ学んでいく場所だということなんだ。
この『聞法の』をおたよりでは入れることを忘れていたよ」
「ふーん、それならなんとなくわかるかな〜。」
子どもたちどうやら、お寺が道場(道をたずねて自己を知る場)であることを認めてくれたようです。