平成24年6月(中期)
仏教では迷いのことを
「煩悩」
といい、親鸞聖人はこの言葉を
「煩は身をわずらわしむ、悩は心をなやます」
と述べておられます。
このことから、煩悩とは私の心身を悩ますものだということが窺い知られます。
また、仏教で煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生じ、人間の諸悪の根源は貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三つであると説き、これをあわせて
「三毒」
と呼んでいます。
煩悩の数については、除夜の鐘を百八回撞くのは
「百八の煩悩を滅するため」
と言われていることからも知られているように、通俗的には百八といわれています。
けれども、実際には煩悩の数は時代・部派・宗派等によりまちまちで、三毒を細かく分析していくと無限にあるとも言われています。
親鸞聖人は『正信偈』で
「惑染の凡夫」
といわれます。
「惑」
というのは
「迷い」、
つまり煩悩のことですが、私たち
「凡夫」
は時々迷うのではなく、迷いに染まっている存在だといわれるのです。
これは、私たちのものの考え方、受け止め方が、惑いに染まっているということです。
例えば、今までの自身の行為を反省して、それを何とか改善していこうとする時にも、やはり惑いは働いています。
それは、自分のあり方を反省する時の自身もまた、惑いに染まっているということです。
けれども、その惑いは、決して自分の思いで起こしているのではないのです。
惑いの方が私を色付けしていて、自分で気付いたり意識したりするよりももっと深く、自分のものの見方、受け止め方、考え方というものを染めてしまっているのです。
このような私の本質をおさえて、親鸞聖人は
「惑に染まった凡夫」
と述べておられる訳です。
確かに、よくよく考えてみますと、私たちは自分では物事を事実その通りに見ているつもりでいるのですが、いつそのような見方や考え方を身につけたのかわからないような、先入観とか固定観念というもので見てしまい、わかったつもりになって評価してしまっているということがよくあります。
チェコスロバキアの作家ミラン・グンデラという人が
人々の愚かしさというものは、あらゆるものについて答えをもっているということからくるのだと自分は思う。
あらゆるものについて自分は答えをもっていると考えることによって、愚かしさ
というものが生れるのではないか。
と述べています。
仏教においては、
「愚かさ」
ということを
「無明」
という言葉であらわしますが、これは
「真実
を知らない」
ということです。
この真実を知らないということは、ただ知らないという姿であるの
ではなく、知らないのに知っているつもりでいるという二重の思い込みに閉ざされている姿です。
真実にふれた人は、自分がいかに真実を知らずにいるかということを深く自覚し反省するのですが、それこそ真実にふれるということのない人ほど、何でもわかったつもりになっているのです。
そしてそのようなあり方は、決して問いを生むということがありません。
そのため、自分は答えを持っていると錯覚していることから、物事の本質を理解することが出来ないままに有益か無益かと判定することに懸命になり、自分では分かったつもりになってしまうのです。
親鸞聖人は、著述の中で、
「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り腹立ちそねみねたむ心多く、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず」
と述べておられます。
これは、一言でいうと、死ぬ瞬間まで煩悩はなくならないということです。
まさに梅雨時期の雨が
「無尽」
と思われるほど降り続くように、私たちの煩悩はこのいのちの尽きる時まで尽きることなくわき起こります。
それは、地に降った雨が、やがてまた時を経て天に舞い上がり何度も、何度も、まさに尽きること無く降り続ける様に似ています。
ところが、私たちはこのような身の事実を教えを聞くことがなければいつまでも気付くことはなく、ただ仏法に耳を傾けることを通してのみ初めて
「煩悩無尽」
と気付かされ、その事実を事実として引き受けて生きる道を歩み始めることができるのだと言えます。