投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「歎異抄に学ぶ人間」−私とは−(下旬)大いなる真実へ

また、往生というのは、その喜びの心を持って与えられたいのち、いつまでか分からないけれども、きちっと懸命に生き抜くことによって、帰るべき世界を頂くことが出来る。

往生というのはそういう世界のことです。

単なる人間の死とは違うんですよ。

往生のことを親鸞聖人は

「新たなるいのちの始まり」

ともおっしゃっています。

そして第四章、ここには

「人間の愛情には限界がありますよ」

と説いてあります。

ある37歳の女性の話ですが、この女性は一生懸命働いて、もうあとわずかでマイホームが完成するという時に、ご主人が三カ月のいのちだと告知されたんです。

その女性はどう考えたかというと、

「家なんかいらない、主人の病気が治ってほしい」と。

でもご主人は亡くなってしまいました。

そして、浄土真宗のあるご住職がお通夜の席で

「慈悲に聖道浄土のかわりめあり。

聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。

しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」

とお話されたそうです。

つまり、人間の愛情というのは、どんなに深い愛であっても、変わることができないということですね。

その言葉をお通夜の席で聞いたけど、その女性は自分の主人が30代で死ぬなんて自分の人生設計になかったわけですから、受け止められなかった。

そして七回忌の法事のときに、その女性がご住職におっしゃった言葉が

「主人が亡くなってくれたお蔭で、生きるということがどういうことか、少し分からせていただきました」。

ご縁のある方には、大事な方と別れたそこから、大いなる真実に出遇う方がいらっしゃるんですね。

その方にとって、ご主人は永遠に生きていらっしゃるということなんです。

これが、仏法の世界だと思うんです。

また、子どもさんを亡くされたあるお母さんがこう言われました。

「この子は、死んでからも私を育ててくれる」と。

亡くなってからも育ててくれるということは、そのお母さんにしって

「私より若い子どもが、なぜ私を置いて先に死んでいくのか」

ということが宿題、課題になり、そのことをずっと考えてきた結果、いろんなことを子どもの死によって気付かせていただいたということなんですね。

つまりこの第四章というのは、私たち人間の愛の不徹底さ、そして、このことに深く目覚めながら、真実の生き方をすることの大切さが説かれてあるのです。

でもそのためには、本当の教えに出遇い、自らが救われていかなければならないんです。

亡くなった方を救うことはできないんです。

1ヶ月ほど前に、隣の幼稚園から逃げた、インコを職場で保護しました。

1ヶ月ほど前に、隣の幼稚園から逃げた、インコを職場で保護しました。

黄色の可愛い、セキセイインコです。

逃げてから二日経過していたようで、インコはお腹をすかせて、大分弱っていました。

そして、ストレスからか卵(無性卵)を産んで、自分で食べちゃったりと・・・

すぐに、ご飯(エサ)をあげて、落ち着くまで、飼う事となりました。。。。

一ヶ月がたち、そろそろ幼稚園に返したほうがいいだろう、ということになり、

(心情的には、可愛くて、可愛くて、返したくない気持ちでいっぱいでしたが。)

職場の先輩が幼稚園の先生のところへ!!

先輩:『もう、インコはお返ししたほうがいいね。連れて行くね』

幼稚園の先生:『いやいや〜・・・実は飼育小屋にいる一匹のインコで強い、いじめっコがいて、ほかのインコをつついたり、毛をむしったりしてて・・・・(>_<)なので、そちらにいたほうがいいかもしれません・・・』

とのこと。

なので、引き続き、職場で飼うこととなりました。

私は、インコと離れたくなかったから、正直うれしいでした。

ただ、、思ったのは、

「インコの世界でもいろんな複雑な鳥関係があるんあだな〜っ」

てこと。

上下関係?力関係?のようなものが存在してるんだな〜って。

小さな飼育小屋の中で、逃げ去ることもできず、ただただ隠れたり、我慢しながら過ごしているインコちゃんたち。

なんか心がキュッっと痛みました。

人間社会もそうですよね。

仕事場での人間関係とか。

やめたら楽になるのだろうけど、生活のため、家族のため、世間体などから逃げることは出来なくて、我慢して我慢して働いている人たち。

学校生活もそうかもしれません。

やめるわけにいかなくて、人に相談することもできず我慢して我慢して通っている子たち。。。。

自分のことだけではなくて、常にアンテナをはって

『あれ!!!なんか様子がへんだな!』

って周りが気づいて、支えにならなくては。

セキセイインコを通して、フト・・・深く考えさせられたことでした。

最後に、黄色のセキセイインコ。

名前は『りーちゃん』です。

愛情をもって、責任をもって、育てていきたいと思っています。

『すべての歩みがあなたになっていく』

私たちは、自分の思いが行き詰まったりすると、

「なぜ私は、こんな私でなければならないんだろう…」

と歎いたりすることがあります。

そして

「あの人みたいだったら良いのに…」

とか、

「この人みたいだったら幸せなのに…」

と思ったりすることもあります。

けれども、どこまで行っても私は私以外の何者でもなく、またどれほど自分の身の不幸を歎いてみても、死ぬまでこの私として生きる以外に道はありません。

そうしますと、人生の途上において私に問われていることは、

「この私を、どこまで私として生き得ているか」

ということになるのではないでしょうか。

それは、

「あるがままの私をそのまま受け入れて、最後まで生き尽くそうとしているか」

ということです。

以前、

「自分が今どのような思いで生きているか」

ということについて、子ども達からマスコミにいろいろな投書が寄せられたことがありました。

その中に

「親の愛情といっても決して無条件のものではなく、親の思いにかなうことをしている時は愛してくれているけれども、ひとたび親の期待を裏切るようなことをすると、親は切り捨ててしまう。

だから自分は、親の気に入るように仮面をかぶる。

そして、学校では先生の気に入るような仮面、道を歩いている時は近所の人が褒めるような仮面、家へ帰ったら親が喜ぶような仮面。

一日中仮面をつけているので、夜寝る時には顔が痛い」

という文章を寄せた少女がいたそうです。

周りの要求に対して、

「自分が自分のままであることは許されない」

という空気を敏感に読み取り、必死の思いで仮面をつけて演技しているということの苦しさを訴えている訳ですが、実はこの文章は特別なものではなく、他の多くの子ども達も同様の思いを述べていたそうです。

考えてみますと、これは子どもだけの問題ではなく、私たち大人も、自分の身を守るためにいろんな仮面をつけたりしてはいないでしょうか。

社会生活を営む上では、我慢をしいられたり、言いたい言葉を必死で飲み込んだりしなければならないことも少なからずあります。

特に今の社会は、

「気に入らないことがあれば、文句を言わなければ損だ」

といった風潮があり、苦情を受ける側に立たされると、多くのストレスを抱え込むことになります。

その結果、今度は自分が苦情を言う側に回ると、必要以上に不満をぶつけたり、時には怒りを爆発させたりといった悪循環を生むことにもなっているように窺えます。

ある一家の大黒柱であったご主人が交通事故で亡くなられた時、周囲の方々がその家の生活を心配して、慰謝料とかの配慮をされたのだそうです。

すると、日頃から仏法を聞いておられたその家のおばあさんは

「そうしてもらって、死んだ息子が帰ってくるのなら、どれだけでも努力はする。

しかし、これも因縁だ」

とおっしゃったのだそうです。

ただし、その翌日から、そのおばあさんは野菜を大八車に積んで町に売りに出られました。

ここで語られている

「因縁」

ということは、その因縁の事実にしたがって生きて行く、その歩みのことです。

「因縁だ」

と言ってそのことに腰をおろしているのであれば、それは単なる解釈に過ぎません。

けれども、それを因縁だと知るということは、このおばあさんのように、その因縁の事実にしたがって生きて行けるということです。

このような歩みを仏教では智慧といいます。

智慧とは、たとえ私の思いと現実とかどれだけ違っていたとしても、それが我が身の事実であるならば、その事実を事実として受け止め、それにしたがって生きていく力のことです。

したがって、たとえ自分の思いで選んだことでも、納得したことではなかったとしても、その事実を受け止めて、自分のありのままを生きようとする生き方。

私の選んだことではないけれども、その事実の他に私のいのちの事実はないと、はっきり引き受けて行く勇気。

これが、仏教でいう智慧です。

私の選びを超えて、私のいのちの事実として与えられてあることを、まさしく私のいのちの事実として責任を持ち、その事実を引き受けてこの人生を生き尽くしていきたいものです。

なぜなら、すべての歩みが私となっていくのですから。

親鸞聖人における「真俗二諦」4月(中期)

では、存覚上人はどうでしょうか。

存覚上人においては、

『破邪顕正抄』

の第十項

「仏法を破壊し、王法を忽諸するよしの事」

が問題になっています。

「仏法と王法は一隻の法なり」

という。

鳥の二つの翼のごとくあり、車の二つの輪のごとくであって、これらは一つが欠けると用をなさなくなるのである。

仏法と王法の関係はまさしくそうであって、仏法をもって王法をまもり、王法をもって仏法をあがめるのである。

ここに理想の国家があるのであって、上代から今日まで、我国の天皇も仏法者も、そうすべく努力してきたのである。

そこには例外はないのであって、聖道の行者も浄土の念仏者もそのようにして、天下の安穏を願ってきたのである。

とすれば私たち一向専念の真宗教徒のみが、どうして世俗の生活の根本理念を忘れ去ってよいことがあろうか。

そのようなことは、決してあってはならない。

存覚上人の文章は、このように解釈することが出来ます。

真俗二諦論では、この部分が問題ありとして指摘されているのですが、存覚上人がこの書の中で述べようとしておられる意図は、この箇所にあるのではありません。

次の部分に、存覚上人の主張の要点があるのです。

今その大意を示せば、次の通りです。

我々一向専念のともがらは、火宅無常の世にあって、曠劫より無限の苦悩を受けてきたのであるが、今この日本国に生まれ、幸いにも阿弥陀仏の仏法に出遇うことができたのである。

このものがどうして皇恩を忘れ、あだにすることがありえようか。

ところで我々念仏者は、この易行によってしか仏果に至りえないので、念仏一行を修し西方の往生を願っているのである。

この行がなぜ、王法に背き、仏法を破ることになるのか。

ところが、国家は理不尽にも、念仏者の真の姿、その求道の心をまったく見ないで、頭から一向専念の輩は仏法を破滅し、王法を軽んずる者だとして、眼に余る迫害を加えている。

これはもってのほかだといわねばならない。

以上が後半に見る存覚上人の主張です。

前半の部分においても、仏教が意味する

「真俗二諦」

の思想に重なるものではありませんが、全体的に見て仏教の真俗二諦がなぜここで問題になるのか、それは存覚上人の知らざるところだというべきではないでしょうか。

その意図するところを重視しないで、一部分だけを取り上げて批判する態度は厳に慎むべきかと思われます。

「歎異抄に学ぶ人間」−私とは−(中旬)うなずきが大切

あるおばあちゃんの話ですが、そこにお参りに行きますと、もめ事がありました。

私たち人間の世界ではもめ事があるのは当たり前です。

みなさんのご家庭で、いろんなもめ事があるのも当たり前です。

そんなことがない家なんて、どこにもないと思います。

お会いして、ニコニコしていても、そのお顔で陰で人には言えないような悲しみをみんな抱いているんですよ。

だから自分だけと悲観する必要もないのです。

そのおばあちゃんが、

「子どもが5人いるけど、みんな勝手なことを言って…。

一つにまとまってくれればいいのだけど」

と言うんですよ。

よく聞いたら、その一つというのは、おばあちゃんの自分の考え方なんですよ。

みんな自分の考えにまとまってくれたらうまくいくのにと思っている。

けれども、子どもは子どもでそうはいかないということもあります。

「ああ、なるほどそこなんだな」

と、そのとき気づきましたね。

次に第一章には

「弥陀の誓願不思議にたすけまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんと思ひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」

とあります。

ここが

「歎異抄」

のなかで一番難しい文章なんです。

だけども、親鸞聖人の教えの一番中心の部分でもあるんです。

阿弥陀仏の教えというのは、出来のいい人だけを仏さまにするといった分け隔てを一切しない。

そして

「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず」

とあります。

「お年寄りはだめ、若い人だけ」

そんなことはない。

「善人だけ、悪人だめ」

そんなこともない。

「老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」。

そして

「念仏申さんと思ひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨」

いいですか。

ここなんです。

「お念仏をしたら救いますよ」

じゃないんです。

仏さまの教えをいただいて、

「ああ、なるほど、そういうことなんだなぁ」

という深いうなずきが大切なんです。

親鸞聖人の教えの中心と言いますのは

「本願」

「信心」

「念仏」

「往生」

の四つであります。

まず本願というのは、本当の願いのことです。

これはどういうことかと申しますと、阿弥陀仏という仏さまの人間に対する呼びかけです。

「お前はもっともらしい顔で生きているけれども、そういう生き方で本当の人生を生きられるの」

という呼びかけ。

お金があるとか、地位があるとか、ちょっと名前を知られているとかね。

あるいは、自分を大切にしてくれる人がいっぱいいるとか、そういうものに埋没している生き方で大丈夫なの、という呼びかけが阿弥陀仏の本願。

その呼びかけに対して

「本当にそうなんだなあ、そういう世界に生きたいなぁ」

といううなずき、これを信心と申します。

そして次に念仏。

念仏とは、その考えもしなかった尊い教えに出遇わせて頂いた

「なんとそれは喜ばしいことか」

という感謝。

これが私たちのお念仏なんです。

阿弥陀さまの呼びかけに対する不深いうなずき、そして

「尊い教えを頂いた。

南無阿弥陀仏」

という喜びの声。

「南無阿弥陀仏」

なんていうと、テレビなんかではほとんどが死んだときにしか出てこないでしょう。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏のことを

「めでたき言葉なり」

とおっしゃっていますよ。

「めでたきことば」

というのは、私たちが苦しみを乗り越えさせていただく教え。

詳しく言うと、

「めでたきことば」

「尊きことば」

「たのしきことば」

「よきことば」

ということです。

「念仏申さんと思ひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益」

というのは、お念仏を称えたらいいようにしてくださるのではなくて、仏さまの教えをまず聞かせていただくと、人生というものがどういうものなのか明らかになるということです。

若いだけが、健康なだけが人生じゃないですよ。

生きていることだけが人生じゃないですよ、ということが明らかになる。

そこに喜びの

「南無阿弥陀仏」

というお念仏が口をついて出てきます。

『往生』

「往生」

という言葉は、本来仏教語なのですが、日常語においてもしばしば用いられています。

例えば

「急いでいたのでタクシーを利用したら、ラッシュに巻き込まれて往生してしまった」

と、どうしようもない状態に追い込まれて閉口したとき。

あるいは

「○○さんが往生されました」

と、誰かの

「死」

を物語るときなどです。

ところで、

「往生」

という言葉はこのような意味なのでしょうか。

決してそうではありません。

なぜなら

「往生」

とは

「往き生まれる」

としか読めないからで、

「往く」

とは、道が通じてそこまで到達することであり、いわば

「どうしようもない状態」

の解決を意味する言葉です。

「生」

もまた

「死」

とは全く反対の言葉に他なりません。

では、往生とは、本来どのような意味なのでしょうか。

読んで字のごく

「往き生まれる」

ということですから、私たちが生活している、この苦悩の多い迷いの世界から、迷いの全くない清浄な国土に生まれていくことを

「往生」

と言ったのです。

私たちにとって、その清浄な国土とは、阿弥陀仏の浄土を指しています。

ただし、その浄土に生まれることが出来るのは、阿弥陀仏の本願を信じている念仏の行者に限られます。

いかもその行者の臨終を待たなくてはなりません。

真実信心の念仏者が、命終えるそのとき、まさにその瞬間に阿弥陀仏の浄土に往き生まれて仏となるのですが、そのすがたを

「往生」

と言ったのです。

この点からすれば、念仏者にとっては、往生とはまことにめでたい言葉であって、往生することによって迷える凡夫がはじめて完全なる仏になるとが出来るのです。

ただし念仏者以外から、このすがたを見れば、それは単なる

「死」

でしかありません。

往生が死を連想せしめ、さらに人々にとっては、死こそその人の人生の終着点、最悪の場でしかありません。

そこで、人生の途上でどうにもこうにもならなくなった閉塞状態を

「往生」

と呼ぶようになったのだと思われます。

ところで、親鸞聖人はこの往生に三種の相を見いだしておられます。

「雙樹林下(そうじゅりんげ)往生」と

「難思(なんじ)往生」と

「難思議(なんじぎ)往生」です。

雙樹林下往生とは、釈尊の臨終を理想化したものであって、迷いのない清浄な心を往生の因になそうとすること。

難思往生とは西方の浄土を純粋に信じて、一心に往生を願うことです。

ただし、この二つの往生の求めには、どうしても凡夫のはからいが残りますので、今日ではこの行の完成は不可能となっています。

難思往生とは、阿弥陀仏が一切の衆生をただ一方的に往生せしめようとしている、本願の不可思議力に乗じようとするもので、この本願を信じ念仏することが、私たちにとって唯一の往生浄土の道になるのです。