投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『愚痴いつも誰かのせいにして』

私たちはみな

「自分のことは自分が一番よく分かっている」

と言いながら、自分自身を頼りにして生きています。

でも、本当は自分のことが一番分からない、頼りにならない存在であり、一番見えていないのが自分自身の姿なのではないでしょうか。

自分の姿が見えている

「つもり」、

自分自身が一番頼りになる

「つもり」

で生きていますので、思うようにならないと、いつも誰かのせいにして、愚痴(ぐち)の生活になってしまいます。

私の母は、いま老健施設で生活しています。

寂しがるので、時々面談に行きます。

お風呂、トイレ、食事、車椅子と、すべて介護してもらわないと、何ひとつ自分では出来ません。

でも、口だけは達者ですから、面会に行くと速射砲みたいに語りかけてきます。

私は

「ふん、ふん」

と頷くだけですが、母の口をついて出る内容は、いつも愚痴の繰り返しです。

「こんなはずではなかった。

若い時はどうだった。

でも、あの人に比べたらまだましだ。

骨折したのはスリッパのせいだ。

近頃○○さんは顔を見せない…」

と、自分の置かれた現状は、まさに他人のせいだと言わんばかりの話が続きますと、母は出口のない闇の中にいるような暗い気持ちになってしまいます。

でも、私が

「そろそろ時間だから帰るよ」

と言うと、

「気をつけて帰るのよ。

南無阿弥陀仏」

という言葉が必ず返ってきます。

法然聖人は

「浄土門の信仰は愚痴に返って念仏する」

と言われたそうです。

私たちの眼は、外側(他人の姿)はよく見えますが、内側(自分の姿)を見ることは出来ません。

帰り際に、母が称える

「南無阿弥陀仏」

の一声を聞くたびに、法然聖人の言葉が心に響いてきます。

お念仏とは、自分自身の愚痴の姿を照らし出し、目覚めをうながしてくれる鏡のようなものではないでしょうか。

親鸞聖人における「真俗二諦」3月(後期)

親鸞聖人の思想の特徴は、すでに述べたように、凡夫が仏になるという仏道に関しては、極めて深い思索を尽くしながら、世俗の世間的生活に関しては、何ら深い関心を示しておられない点にあります。

すなわち、世俗における教説は常識の域をでないのであって、

「ことさらに悪をなしてはならない」

「この身を厭い、悪い心をひるがえし」

て、人間としての善意に努める、といった思想ぐらいしか見出せません。

このことは、親鸞聖人が仏教の理念を世間的生活の次元に持ち込むことを厳しく否定しておられることを示しています。

この世における最も悲惨な悲劇は、愚かな人間が仏や神の名においてなす教条的(原理・原則を絶対のものとする考え方)行為です。

もし人が錯覚して、誤った仏教の原理を押しつけ、それを人々に実践させるべく強いたとすれば、それこそとんでもない過ちを犯すことになるといわねばなりません。

私達は今日、どのような立場から真宗者の

「真俗二諦」

を捉えようとしているのでしょうか。

その多くは、親鸞聖人の真俗二諦の立場に立てといわれます。

けれども、その真俗二諦論は、真実信心の智慧の立場からこの世における悪の構造を正しく見極めて、徹底的にその悪を排除しようとする実践的行為を信心の念仏者の姿だとするものです。

けれども、それはむしろ危険な思想だというべきで、親鸞聖人にそのような真俗二諦の立場があるのではありません。

そこで、親鸞聖人の思想に見る世俗とのかかわりは、次のようにまとめることができるように思われます。

『すでに真実信心を獲得している念仏者は、もはや自分自身の往生を願う必要はなくなっている。

だからこそ念仏の功徳は他に向けられるべきで、自分自身の幸福を求めるのではなく、ただひたすら朝家のため御ため国民のため、念仏の真実を讃嘆すべきであり、さらに御報恩のために、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれかしと、願うべきである』

そのためには、念仏の真実が他者に誤解されるようなことがあってはなりません。

世間一般の人々が、念仏者の生き方にふれて、その輝きに自ずから引き寄せられるような、そのような生き方がもとめられるのです。

ことに地方の中心者、領家・地頭・名主等は、仏法の真実を聞き学ぼうとする心を持っていません。

だからこそ、この者に誤解を与えるような振る舞いは絶対に慎むべきで、諸仏・諸神を疎かにしたり、わざと好んで悪をなすといった行為は、決して行ってはならないのです。

なぜなら、領家や地頭や名主がもし誤って念仏を弾圧すれば、彼らこそがまさしく地獄に落ちなければならないからです。

ただし、念仏者がどのように努力しても念仏への弾圧がひどくなるような場合は、

「この地域では念仏の縁が尽きているのだ」

と思って、立ち去ればよいのです。

間違っても、念仏の法を広めるために教えの真実を曲げたり、権力者に媚び諂ってはならなりません。

「余のひとびとを縁として、念仏を広めんとはからいあわせたもうこと、ゆめゆめあるべからず」

なのである。

いかに領家・地頭・名主が念仏者に

「ひがごと」

を行ったからといって、百姓を惑わすようなことはしません。

そして念仏の法門は、そのような外からの弾圧に破られるようなことはありません。

仏法者が破られるのは、あたかも獅子身中の虫が獅子を食らうがごとく、仏法者の堕落によってのみ、その仏法が破られていくからです。

「この身をいただいたということ」(下旬)いのち輝かせて

今生かされていることも知らず、その生かされている

「いのち」

がどっちを向いているかも分からない。

畜生は、私たちの話なのです。

せっかくこの身をいただいて、仏法を聞ける身を頂いているときに、この問題を解決しなければならない。

「人身受けがたし、今すでに受く。

仏法聞きがたし、今すでに聞く。

この身今生(こんじょう)に向かって度せずんば、さらにいずれの生にむかってこの身を度せん」。

これは

『三帰依文』

にある言葉です。

この身をいただいたときに、迷いから迷いへの人生を転じて、さとりの世界に向かわなければいけないということなのです。

それが、お浄土に生まれるということなのです。

迷いを繰り返す世界、つまり生死から離れていく。

そして、何ものにも束縛されない所で、いただいたいのちを100パーセント輝かせて生きるような世界を極楽といいます。

この極楽に向いて歩いていくことを往生と言います。

往生というのは、死んでからいい所に行くという話ではないのです。

親鸞聖人は、あまり極楽という言葉を使ってはおられません。

楽というと快楽とか享楽というイメージがありますが、仏教でいう楽とは快楽や享楽ではありません。

このような楽は必ずあとで苦が伴います。

本当の楽とは

「いただいたいのちを何ものにも縛られずに、100パーセント輝かせて生きている状態」

のことです。

この状態を仏教では

「自在」

といいます。

そして、いのちを輝かせてみんなに喜んでもらえたら、こんなに嬉しいことはない。

自在に生きて、他の人のお役に立っていく。

これが極まった世界を極楽というのです。

迷いの人生は流転の人生。

その時々の煩悩に流されている人生。

その流転の人生を越えて往生の人生を歩ませてもらうチャンスを頂いたのがこの身なのです。

この身がいつまでもあるのならば、ゆっくりすればいいのですが、いつなんどきどうなるか分かりません。

蓮如上人は、

「仏法のことはいそげ、いそげと仰せられそうろう」

とおっしゃいました。

他のことは多少遅れても、取り返しのつくことがいっぱいありますが、迷いを出ることは

「いのち」

が終わっても取り返しがつきません。

では、どうしたらこの流転の人生を出られるか。

それを親鸞聖人は

「お念仏ひとつで出ることが出来る」

とおっしゃっておられます。

お念仏を称えるというのは呪文でも祈りでもありません。

お念仏するとは聞くということなのです。

お経でも、お念仏でも声を出すでしょ。

あれは、死んだ人に聞かすために声を出すのではありません。

これは

「我が身が聞く」

ということなのです。

そして、お念仏

「南無阿弥陀仏」

について親鸞聖人は、善導大師のお示しをいただきながら

「お念仏は阿弥陀如来さまが私によびかけてくださるよび声だ」

とおっしゃっておられます。

浄土真宗は、お念仏を称えて救われる教えではないのです。

如来さまのよび声が聞こえて救われていく教えなのです。

称えたら何かいいことがあるということではないのです。

称えて、我が身に聞くのです。

如来さまのよび声、それは

「日が良かろうが、悪かろうが、人がどんな目をしようが、どんなときでもあなたを見捨てることのない私が、あなたのいのちをしっかりとガードして護っていますよ。

だから、つまらんことに気をとられずに、いただいたいのちのありだけを生きよ」

と、わが

「いのち」

によびかけてくださる声であり、それが

「南無阿弥陀仏」

なのです。

先週末、PTAの飲み会がありました。

先週末、PTAの飲み会がありました。

わたしは女子会大好き!お酒も大好き!です。

なので、校区内のいろんな情報が得られるPTAの飲み会は

絶対優先で参加したい催しのひとつです。

今回は学年末の飲み会ということで、学年の全2クラスで集まって飲みました。

参加率はママたち30〜35%というとこでしょうか。

あと女性の先生2人。

これでも出席率いい方の学年でしょう。

わたしがいつも重宝しているのは、習い事の情報です。

今の子どもたちには、習い事がかかせません。

1つもしてない子って、ほんとにごくわずかじゃないかな。

ママたちから、近所で評判のいろんな習い事情報をGETして、

安くてラクして効率のよい、

そして子どもが進んで取り組めるような習い事を探します。

あとは、先生たちや学校の噂や評判とか、

各ご家庭のおもしろネタとか、

近所の地価の話だったり、

はたまた子どもたちの恋バナだったり…。

身近で生きた情報の宝庫!

ママ友ネット!

役に立つし、信頼できるし、勉強なるし、おもしろいし、

ありがたいつながりです。

2次会は、いつものカラオケ♪だったのですが、

わたしは次の日仕事だったので、遠慮させていただきました。

それでもだいぶ二日酔、きちゃってた。

やっぱ年かなぁ。

『愚痴いつも誰かのせいにして』

私たちは、日頃無意識の内になのですが、心のどこかで自分の人生は

「思い通りにいくはずだ」

と考えていたりします。

けれども、そのようなことは誰も保証してくれている訳ではありませんし、日々の生活の中で思い通りにいかないことにしばしば直面します。

それはむしろ当然のことなのですが、そのような時、自身の現実から目をそむけて

「運命だった」

という言葉であきらめようとしたり、

「不幸な出来事だった」

として、その一切を切り捨てようとすることさえもあります。

仏教では、決して

「運命」

ということは言いません。

それは、自分がどのように努力をしても、あるいは何もしなくても、前から決まっていて仕方のないことだったとあきらめるあり方だからです。

そうではなくて、この私の思い、私の選びを超えて、私のいのちの事実として与えられてあることを、まさしく私のいのちの事実として責任を持ち、その事実を引き受けて立ち上がり、生きて行こうとする勇気を

「智慧」

といいますが、その智慧によって生きることを説く教えこそ仏教だからです。

私たちが、勇気を持てない時に口をついて出てくるのは

「愚痴(ぐち)」

です。

愚痴とは、私の身の事実を引き受けられない弱さのことです。

仏教では、覚りの智慧を

「無生法忍」

と、忍ぶという字で説いています。

阿弥陀仏の四十八願の一番最後は

「得三法忍の願」

といわれています。

そういう

「忍」

を得るということ、その忍とは文字通り耐え忍ぶ勇気です。

事実を事実として耐え忍んでいく勇気、それを忍という字で表し、それが仏教の開いてくる智慧なのだという訳です。

仏教によって賜る智慧は、決して

「あれもこれも何でも分かっている」

ということではありません。

我が身の事実を生きていける勇気のこというのです。

どこまでも、事実を事実として受け止めて生きてゆける、そういう勇気を、仏教では智慧という言葉で表しているのです。

ところが、私たちの場合、自分の思いがその通りにならないと、すぐに行き詰まり、時には絶望的な思いに陥ることさえもあります。

確かに、私たちは自分の思いが行き詰まったりした時は、とても辛いものです。

しかも、もしそんなときに一人ぼっちでいたとしたら、そういう行き詰まりには耐えられないことがあるかもしれません。

人間、ひとりぼっちでいる時には、自分の思いが行き詰まるような生活や、そのような現実に向き合ったりすると

「私一人だけが、何でこんな目に遭わなければならないのか」

「何でこんな辛い人生なのか」

と、それこそ愚痴しか出ないこともしばしばあります。

経典には

「心塞(しんふさ)がり意(こころ)閉じる」

という言葉が出てきますが、辛いとか苦しいといった現実において、自分の心を閉ざしてしまったら、あとはもう絶望するしかないのです。

もしかすると、人によっては

「仏法を聞けば悩みなどなくなる」

という期待感を抱くことがあるかもしれませんが、いくら仏法を聞いても、この世を人間として生きていく限り、何の問題もなくなるということはありえません。

また経典には

「心開明(こころかいみょう)することを得つ」

という言葉もあります。

これは、仏法は心がおのずと開かれるような、それこそ善き人々の世界を私たちに伝えて下さることを明らかにする言葉です。

「誰も自分のことを理解してくれない」

そういう思いに閉ざされている私たちに、

「ここにこういう問題を担いながら、人間として一生懸命に歩んでいる人がいるよ」

と、私に先立って一歩一歩生きていかれた善き人々の歴史に出遇わせてくださるのが、仏法の世界なのです。

親鸞聖人においては、それは七高僧に代表される善き人々の歴史でした。

そういう人々の歴史に出遇う時に、私たちは初めて自分のいのちの事実というものを本当に受け止めていくことができるのではないかと思います。

うまくいなかいことを

「いつも誰かのせいに」

するのではなく、そのような人生だからこそ、私の前を歩かれた善き方々の語りかけに真摯に耳を傾けたいものです。

親鸞聖人における「真俗二諦」3月(中期)

例えば、親鸞聖人は

『教行信証』「信巻」

の終わり

「逆謗摂取釈」

で、曇鸞大師の

「八番問答」

を引用しておられますが、そこで五逆罪と正法を誹謗する罪とどちらが重いかが問われています。

五逆罪とは、実際に自分の父や母を殺害する罪で、この世では最も重い罪だとされるものです。

これに対して、正法を誹謗するとは、ただ口先で

「仏教の教えなど嘘ばかりで信じるに値しない」

というのみです。

だが、それにもかかわらず曇鸞大師は、五逆罪よりも正法を誹謗する罪の方が、はるかに重罪だとされます。

なぜでしょうか。

これに対して曇鸞大師は、もしも諸仏・菩薩がましまさず、世間・出世間の善道を説いて、衆生を教化する人の存在がなければ、人々はどうして

「仁・義・礼・智・信」

を真に知りえようかと答えられます。

この意味からすれば、仏法はまさしく世間的な倫理や道徳のより根源の法というべく、世間一切の善法はこの仏法の教えによって、はじめて真に導きだされるのだと、親鸞聖人もまた考えておられたことが窺えます。

では、親鸞聖人はなぜ仏法という教法の中で、世俗の法にほとんど関心を示されないのでしょうか。

それは世間的善悪の問題、世俗の法は、あくまでも我々人間知のレベルで解決が可能だからだと言えます。

というよりも、世間的倫理道徳的事柄は、どこまでも人間知の次元で解決すべきことだというべきかもしれません。

人間社会で繰り広げられる善悪の問題は、そのほとんどがその時代、その社会における人間の常識で、判断可能な事柄のはずです。

まさに、人間の歴史はそのような中で流れているのであり、お互いの常識で、善が悪を廃して、人間社会を成立せしめているのです。

人間の行為は、人間倫理で十分なのであって、普通はその一つひとつに仏法の根本理念を照らしたりなどはしません。

ただし、だからこそ、世間の一切は顛倒しているのであって、仏法の目から見るならば、

「よろずのことみなもて、そらごとたわごと、まことあるなし」

といわなければならないのです。

だとすれば、ここで仏の眼を持つ者の出現が求められることになりますが、残念ながらこの末法の世はただ凡愚のみで、仏の眼を持つ衆生など誰一人としていません。

それはこの世において、この現実の世界を仏陀のごとく真実歩みうるものは、誰一人いないことを意味しています。

仮に仏法を一心に学び、自分は悟りの智慧を得たと嘯くものがいたとしても、それを真宗的にいえば真実信心の智慧を獲得したと歓喜するものがいたとしても、この世における人間の歩みはその一切が不実でしかないのです。