投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

3月11日におこりました、東日本大震災で被災されたみなさまへ心よりお見舞い申し上

3月11日におこりました、東日本大震災で被災されたみなさまへ心よりお見舞い申し上げます。

突然の地震、そして津波。

そればかりか、原子力発電所の放射能問題など、多くの災害の中にある方々には、明日をも信じることの出来ない状況であろうかと思います。

私たち日々の生活の中で、ついついあたり前と思いながらその日暮らしをさせて頂いていることです。

明日が来るのがあたり前で、そして来週と…。

その日常の中、不意に通常と違うことがおこると、私たちは驚きと不安に駆られます。

しかし、よくよく考えてみますと、この諸行無常の娑婆世界、一寸先がどうなるかわからないものです。

この一週間、日頃あたり前だと思っていたことが、実はあたり前ではなかったことをあらためて考えさえていただくことでした。

私のお念仏でこの未曾有の大災害が収まるのであれば何千回、何万回とお唱えするところですが、そのような念力を持ち合わせるものでもありません。

しかし、

「何かしなければ」

という思いは、私だけではなく日本中、世界中の人々が抱いておられることと思います。

募金活動や節電など、私たちひとりひとりに出来ることは小さなことかも知れませんが、それが集まり大きな力となり、復興へつながるものと信じたいです。

すべての縁が、新たな明日をうみだすのです。

ただ、人々が助け合うニュースの裏側の紙面に、人が人を殺害する戦争のニュースが報じられる。

これが、私たちの現実であることもまた事実です。

『すべての歩みがあなたになっていく』

4月は、新生活の始まりの時期でもあります。

新たな期待や思いを持って、むかえられている方々も多い事と思います。

私は、4月になるといつも思い出すことがあります。

それは、今から十数年前ですが、僧侶になるために勉強をする学校の入学式でのことでした。

その学校の先生が、

「この学校は、学べば学ぶほど愚かになっていく学校です」

というあいさつをされました。

私は、はじめそれを聞いた時よく意味がわかりませんでしたが、その先生のおっしゃった通り、学べば学ぶほど、聞かせていただけばいただくほど、次第にその言葉の意味をしみじみと自分の事として気づかせていただいたことでした。

仏さまの教えに出遇うという事は、おそらくわたくし自身のありのままの姿に気づかされていくということなのでしょう。

今思うと、それら一つ一つの師の言葉や、出会い、別れ、喜び、悲しみ、苦しみのすべてが今のわたくしとなっています。

もちろん、わたくしが気づいていないだけで、もっと数多くのご縁によって、ただ今のわたくしは成り立っているのです。

ただ今のわたくし、という現在に立って、言い換えると、自己の身の真実に立って過去を明らかにしていく、それが仏教の説く縁起の道理です。

「縁起」

といいますと、よく

「縁起が良い」

とか

「縁起が悪い」

などといった言い回しで使われる事がありますが、そのように自己中心的なわたくしのその時その時の都合で語られるものではありません。

ただ今のわたくしという立場に立って、自覚的にいただけるものがご縁の世界です。

また、それをご恩と言ったりもします。

本来、縁とはそれがわたくしにとって都合が良かろうが悪かろうが選ぶことはできないものです。

むしろ、自分の都合でしか見ることの出来ないわたくしにとっては、

「都合の良かった事も、悪かった事も、すべてが今のわたくしとなっているのだ」

といただけるのが、縁起という事なのでしょう。

「すべての歩みが、あなたになっていく」

過去はもう過ぎ去ったものであり、未来は不確かなものです。

慌ただしい日常の中で、普段は忘れがちなことではありますが、時には立ち止り、今、生かされて生きているいのちの不思議をおもい、共に一瞬一瞬のご縁によって成り立っているいのちと確認していきたいものです。

親鸞聖人における「真俗二諦」4月(前期)

いまひとつ、私達は今日、近世以降真宗教団が主張してきた

「真俗二諦」

の思想に対して、それは親鸞聖人の信心と根本的に異なっていると、非常に批判的にとらえることがしばしばあります。

この場合、例外なくその原点は覚如上人にあるのだとしています。

だが、果たしてそうなのでしょうか。

ここで、親鸞聖人がこの末法の世における

「真俗二諦」

の成立を否定している点に注意しておきたく思います。

なぜなら、覚如上人・存覚上人・蓮如上人の思想は、親鸞聖人がこのように否定された点を起点として展開しているからです。

端的にいうならば、覚如上人・存覚上人・蓮如上人の著述において、基本的には

「真俗二諦」

の言葉は見出せません。

したがって、真宗教団における歴代宗主には、今日いわれているような真俗二諦の思想はなかったと見なければなりません。

ただし、例外として存覚上人には

『教行信証』

の註釈書である

『六要抄』

があり、その

『末法灯明記』

の註釈の部分で、

「真俗二諦」

に対する見解が見らますが、ただしその場合でも

「此の書は是仏法・王法治化の理を演べ、乃ち真諦・俗諦相依の義を明かす。

と述べるにとどまっておられます。

結局、私たちの世には、正・像・末という異なった三時があり、また機においても利と鈍の差があるから、真諦と俗諦の関係も

「一法」

のみによって定めることは出来ないとされ

『教行信証』

の意と大きく違うものだとはいえません。

このように見れば、今日批判されているような真俗二諦の構造は、覚如上人・存覚上人・蓮如上人の上には明確には見出しがたいといわねばなりません。

では真俗二諦論で、覚如上人のどのような思想が問題にされているのでしょうか。

一般には、

『改邪抄』

の次の文が指摘・批判の対象とされています。

出世の法では五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)を、世法では五常(仁・義・礼・智・信)を守ることが、日常における人間の道である。

だからこそ、この道理をわきまえて、内心には他力の信心、阿弥陀仏の不可思議さに生かされることが、法然から親鸞へと教えられてきた我々の生活規範である。

だが今日耳にするところによれば、

「世間法」

を忘れて

「仏法」

の義ばかりを重視せよというような風潮が我々の教団にあるようである。

だがそのようなことは絶対にあってはならない。

『末法灯明記』にも、

「末法では仏法の道理はすたれ、意味をなさなくなっている」

と示されている。

親鸞聖人は、仏法者ぶることは全くなされていない。

教信沙弥のごとく生きたいと願われたのが親鸞聖人の心だからである。

このことからしても、我こそは仏法者であるという

「仏法者ぶる」

態度を表面に出すべきではない。

『改邪抄』の大意は、このように受け止めることができます。

この内

「真俗二諦論」

では、前半が問題にされているのですが、覚如上人の言いたいことはむしろ後半部分にあるのであって、前半はただ単に世間の一般常識を述べているにすぎません。

しかも出世の法が真諦であり、世間の法が俗諦であるといった意味は、この文からは読み取れません。

そのような範疇で、出世の法・世間の法といった言葉が使われているのではないからです。

仏法者は、最低五戒を守るべきですし、俗世間では五常を守ることが人間の道です。

真宗者はもちろん、五戒を守る心は持ってはいません。

そこで、五常を守ることが重要となります。

そうだとすれば、この者の生き方は、当然五常を守りつつ、内心に深く他力の不可思議さに生かされるべきだということになります。

だからこそ覚如上人は、真宗者に対して

「ことさらに仏法者ぶる必要はない」

といっておられるにすぎないのです。

「歎異抄に学ぶ人間」−私とは−(上旬)パパさようなら

======ご講師紹介======

山崎龍明さん(武蔵野大学教授)

☆演題「歎異抄に学ぶ人間−私とは−」

ご講師は、武蔵野大学教授の山崎龍明さんです。

昭和18年東京生まれの山崎さんは、龍谷大学文学大学院修了後、龍谷大学講師、本願寺教学本部講師を経て、現在武蔵野大学教授を始め、同大学仏教文化研究所所長、東京仏教学院講師として、教化伝道にご尽力しておられます。

また、世界宗教者平和会議役員並びに平和研究所員、NHK文化センター講師等でご活躍です。

『歎異抄を生きる』等、著書も多数出版しておられます。

==================

先年、私の友人が51歳で亡くなったんです。

彼は結婚してから17年間、子どもに恵まれなかったんですが、47歳のとき待望の赤ちゃんが生まれました。

男の子でした。

でもその4歳の子どもを残して、今年5月17日に彼は亡くなってしまったんです。

火葬場な出棺するときに、最後のお別れですから、お母さんが

「元気な声で『パパさようなら』と言いなさい」

と子どもに声をかけるんです。

私は涙を禁ずることができませんでした。

その彼には82歳になるお母さんがいらっしゃるんです。

このお母さんは40年前、20代の娘さんを自死で亡くされているんです。

そこへもってきて、5月に息子さんを亡くしてしまった。

みなさんの中にもそういう悲しいご経験をされた方がたくさんいらっしゃると思います。

特に今、この難しい社会の状況の中で、自らいのちを絶たれる方が毎年3万人以上もいらっしゃるという報道がなされています。

生きるということは、本当に苦しく辛い、そして悲しいことであります。

そういう中を私たちは生きていかなければならない。

よほどいのちの幹をしっかりしなければ成りません。

『歎異抄』は、そういうことに対する様々な答えが用意されているお書物であると申し上げてもよろしいと思います。

さて『歎異抄』ですが、こんなことが書かれているんです。

一番最初の序文には

「自見の覚悟をもって他力の宗旨を乱ることなかれ」

とあります。

自見とは自分の見解のことです。

私たちはみな自我というものを持っています。

早島鏡正という先生が

「我尺」

ということをおっしゃっています。

我尺とは

「私の物差し」

ということです。

そして先生は、我尺に対して

「仏尺」

とおっしゃった。

仏尺とは、仏さまがものをご覧になる

「仏さまの物差し」

です。

私たちは、みんな自我、エゴ、自分の物差しですべてのものを測りますね。

その結果、

「あの人はいい人だ、この人はいい人だ。

あの人はとんでもない人だ」と。

けっこう、それは間違っていることが多いんじゃないでしょうか。

いい人悪い人がいるんじゃない。

いい人だ悪い人だと思っている自分がいるだけなんです。

私たちが

「あの人はいい人ですよ」

というときは、だいたい自分の言うことを聞いてくれる人じゃないですか。

これが我尺なんですよ。

『歎異抄』の世界は、

「自分の物差しを絶対化するのは間違いですよ」

と。

私たちは、どうしても自分の人生経験、あるいは教養だとか知性とか、そういうものを自分の物差しにして、すべてを測っているんですね。

一回その物差しを捨ててみますと、つまらないと言われていた人が素晴らしい人であったり、あの人は間違いないという人がそうでないこともあり得るんですよ。

『愚痴いつも誰かのせいにして』

私たちはみな

「自分のことは自分が一番よく分かっている」

と言いながら、自分自身を頼りにして生きています。

でも、本当は自分のことが一番分からない、頼りにならない存在であり、一番見えていないのが自分自身の姿なのではないでしょうか。

自分の姿が見えている

「つもり」、

自分自身が一番頼りになる

「つもり」

で生きていますので、思うようにならないと、いつも誰かのせいにして、愚痴(ぐち)の生活になってしまいます。

私の母は、いま老健施設で生活しています。

寂しがるので、時々面談に行きます。

お風呂、トイレ、食事、車椅子と、すべて介護してもらわないと、何ひとつ自分では出来ません。

でも、口だけは達者ですから、面会に行くと速射砲みたいに語りかけてきます。

私は

「ふん、ふん」

と頷くだけですが、母の口をついて出る内容は、いつも愚痴の繰り返しです。

「こんなはずではなかった。

若い時はどうだった。

でも、あの人に比べたらまだましだ。

骨折したのはスリッパのせいだ。

近頃○○さんは顔を見せない…」

と、自分の置かれた現状は、まさに他人のせいだと言わんばかりの話が続きますと、母は出口のない闇の中にいるような暗い気持ちになってしまいます。

でも、私が

「そろそろ時間だから帰るよ」

と言うと、

「気をつけて帰るのよ。

南無阿弥陀仏」

という言葉が必ず返ってきます。

法然聖人は

「浄土門の信仰は愚痴に返って念仏する」

と言われたそうです。

私たちの眼は、外側(他人の姿)はよく見えますが、内側(自分の姿)を見ることは出来ません。

帰り際に、母が称える

「南無阿弥陀仏」

の一声を聞くたびに、法然聖人の言葉が心に響いてきます。

お念仏とは、自分自身の愚痴の姿を照らし出し、目覚めをうながしてくれる鏡のようなものではないでしょうか。

親鸞聖人における「真俗二諦」3月(後期)

親鸞聖人の思想の特徴は、すでに述べたように、凡夫が仏になるという仏道に関しては、極めて深い思索を尽くしながら、世俗の世間的生活に関しては、何ら深い関心を示しておられない点にあります。

すなわち、世俗における教説は常識の域をでないのであって、

「ことさらに悪をなしてはならない」

「この身を厭い、悪い心をひるがえし」

て、人間としての善意に努める、といった思想ぐらいしか見出せません。

このことは、親鸞聖人が仏教の理念を世間的生活の次元に持ち込むことを厳しく否定しておられることを示しています。

この世における最も悲惨な悲劇は、愚かな人間が仏や神の名においてなす教条的(原理・原則を絶対のものとする考え方)行為です。

もし人が錯覚して、誤った仏教の原理を押しつけ、それを人々に実践させるべく強いたとすれば、それこそとんでもない過ちを犯すことになるといわねばなりません。

私達は今日、どのような立場から真宗者の

「真俗二諦」

を捉えようとしているのでしょうか。

その多くは、親鸞聖人の真俗二諦の立場に立てといわれます。

けれども、その真俗二諦論は、真実信心の智慧の立場からこの世における悪の構造を正しく見極めて、徹底的にその悪を排除しようとする実践的行為を信心の念仏者の姿だとするものです。

けれども、それはむしろ危険な思想だというべきで、親鸞聖人にそのような真俗二諦の立場があるのではありません。

そこで、親鸞聖人の思想に見る世俗とのかかわりは、次のようにまとめることができるように思われます。

『すでに真実信心を獲得している念仏者は、もはや自分自身の往生を願う必要はなくなっている。

だからこそ念仏の功徳は他に向けられるべきで、自分自身の幸福を求めるのではなく、ただひたすら朝家のため御ため国民のため、念仏の真実を讃嘆すべきであり、さらに御報恩のために、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれかしと、願うべきである』

そのためには、念仏の真実が他者に誤解されるようなことがあってはなりません。

世間一般の人々が、念仏者の生き方にふれて、その輝きに自ずから引き寄せられるような、そのような生き方がもとめられるのです。

ことに地方の中心者、領家・地頭・名主等は、仏法の真実を聞き学ぼうとする心を持っていません。

だからこそ、この者に誤解を与えるような振る舞いは絶対に慎むべきで、諸仏・諸神を疎かにしたり、わざと好んで悪をなすといった行為は、決して行ってはならないのです。

なぜなら、領家や地頭や名主がもし誤って念仏を弾圧すれば、彼らこそがまさしく地獄に落ちなければならないからです。

ただし、念仏者がどのように努力しても念仏への弾圧がひどくなるような場合は、

「この地域では念仏の縁が尽きているのだ」

と思って、立ち去ればよいのです。

間違っても、念仏の法を広めるために教えの真実を曲げたり、権力者に媚び諂ってはならなりません。

「余のひとびとを縁として、念仏を広めんとはからいあわせたもうこと、ゆめゆめあるべからず」

なのである。

いかに領家・地頭・名主が念仏者に

「ひがごと」

を行ったからといって、百姓を惑わすようなことはしません。

そして念仏の法門は、そのような外からの弾圧に破られるようなことはありません。

仏法者が破られるのは、あたかも獅子身中の虫が獅子を食らうがごとく、仏法者の堕落によってのみ、その仏法が破られていくからです。