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この4月から、母校でもある地元の小学校の学校評議員という役を務めさせていただくこ

この4月から、母校でもある地元の小学校の学校評議員という役を務めさせていただくことになり、入学式に来賓として出席しました。

卒業以来約20年ぶりにくぐる母校の門。

何一つ変わらないあの時のままの光景に胸が熱くなり、まさに新1年生のような高揚した気持ちを抑えることができませんでした。

受付を済ませ校長室に通されると、明治から続く歴代の校長先生方の写真が並んでいました。

自分の在校時の校長先生の写真を見つけた時はもう懐かしくてたまらず、それを眺めながら一人思い出に浸っていました。

おそらく、来賓者の中で私だけが一人きょろきょろとしていたことと思われます。

いよいよ入学式が始まると、ほんの数日前に私が副園長を務める保育園を卒園したばかりの新1年生が、6年生のお兄さんお姉さんに手を引かれ入場してきました。

初々しい制服姿がとても眩しく、私たちの頃から変わらないそのデザインもまたたまらなく懐かしく、保護者の方々以上に目を細めて見入ってしまいました。

ただ一つ、変化があることと言えば児童の数でしょうか。

時代の流れとはいえ、今年度の新入生は11人。

2年後には統廃合により、同じ地区の他の2校と合併することも決まっています。

全校児童は自分たちの頃の半分以下。

また、私の親の世代からすると、5分の1ほどにまでに減っているそうです。

「まさか、母校がなくなってしまうとは…」

とも思いましたが、少子化に歯止めがかからないのもまた、この地域の実情です。

そのような思いも相まって、入学式の最後に後輩の子どもたちが母校の校歌を高らかに歌うのを聞いた時には、もう溢れる涙を止めることができませんでした。

「鶴羽の城の跡どころ

におう若木よ若草よ

正しくつよくたくましく

育つこの土この丘に

夢も羽ばたく鶴羽校」

校歌の歌詞まで載せてしまって大変恐縮ですが、校歌にも歌われるように花岡島津家の鶴羽城跡に学校が建ち、JALのロゴマークと見間違うほどそっくりな鶴の校章ももう見られなくなるのかと思うと、いつしか気持ちは寂しさに変わっていました。

けれども、形はやがてなくなってしまうとしても、私たちを育んでくれたこの学舎、歴史、人情は、地域の人たちの生きる姿の中に脈々と受け継がれ、そして今この私にも届けられています。

校訓であり校歌にもある

「正しく」

とは、私にとっては『お正信偈』の

「正」

という字と重なります。

「正」

の字は、

「一を守って止まる」。

全ての存在に通じて、変わらないことと聞かせていただいています。

いつまでたってもぶれやすく、その都度その都度ころころ思いが変わる私に、如来様は

「信(まこと)」

の心で

「正しく」

と諭してくださっているようです。

そのように振り返ってみると、これまでの環境、出会い、校歌も含めその一つひとつが仏道となって、私の歩みを後押ししていただいていたのかもしれません。

母校の入学式は、私にいろんな思いを呼び起こしてくれました

『生まれてくれてありがとう生んでくれてありがとう』

昨年、祖父の七回忌の法要を勤めました。

在りし日の祖父を偲びつつ仏前で手を合わせ、阿弥陀さまの本願のお心を味わう尊いご縁をいただいたことでした。

祖父の法要を営んでいる最中、私の隣に座っていた従兄弟(母の妹の長男)が、手を合わせながらこうつぶやいていました。

『おじいちゃん、ありがとう。南無阿弥陀仏』と。

ぽつりとつぶやいた言葉ではありましたが、大変印象に残ったので、法要が終わってからその従兄弟に尋ねてみました。

『さっき、「ありがとう」って言っていたよね。

どんなことをおじいちゃんに感謝していたの?』と。

すると、従兄弟はこう答えてくれました。

『あぁ、あれは

「おじいちゃん、生まれてきてくれてありがとう」

っていう気持ちを伝えたんだよ』と。

これを聞いて、私は一瞬

「反対なのでは?」

と思いました。

肉親の間で

『よく生まれてきてくれたね。本当にありがとう』

というような言葉が出るのは、一般にはお父さんやお母さん、あるいはおじいちゃんやおばあちゃんが、子どもや孫を可愛がる中においてです。

ところが、これはその逆で、孫から祖父に対して発せられたのです。

孫が、おじいちゃんに向かって

『生まれてきてくれてありがとう』

と言っている訳ですから、私は不思議に思ったので、従兄弟に

『どうしてそう思ったの?』

と、重ねて尋ねてみました。

すると

『自分たちは、当たり前みたいに生きているけど、それは決して当たり前じゃなくて

「おじいちゃんがいたからこそ自分が今ここにあるんだ」

と、手を合わせることで強く感じた。

今、自分が自分であるのも

「おじいちゃんが僕に名前をつけてくれて、支えてきてくれたからなんだ」

と、気づかされた。

そしたら、自然と手を合わせながら、

「ありがとう」って言っていたよ』

と、答えてくれました。

私とその従兄弟の名前は、亡くなった祖父がつけてくれたもので、私は自分の名前を書くたびに、

「祖父が心からの願いを込めてつけてくれたものなのだ」

と、私自身のいのちの尊さ・有り難さを深く感じます。

きっとその従兄弟も、私と同じような気持ちを

「祖父を偲んで、手を合わせる中で感じたんだろうな」

と思ったことでした。

私の『いのち』の前には、私を生んでくれた『いのち』があり、その『いのち』の前にも、その『いのち』を生み出した『いのち』がありました。

そして、それぞれが

『生まれてきてくれてありがとう』

と優しい気持ちをもって自らが生み出した『いのち』を育んで下さったからこそ、今ここに私の『いのち』があるのだと言えます。

このような『いのち』の繫がりと、そこには目には見えない深い縁があったことに気付く時、素直な気持ちで

『生んでくれてありがとう』

と言わずにはおれない気持ちが胸にあふれます。

祖父との命のご縁、従兄弟の感謝の言葉と姿を通して、尊い仏縁に出会わせていただいたことでした。

これからも、『いのち』の縁を大事にしてまいりたいと思います。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(5月前期)

謹んで化身土を顕さば、仏は無量仏観経の説のごとし。

真身観仏これなり。

土は観経の浄土これなり。

また菩薩処胎経等の説のごとし。

即ち、懈慢界これなり。

また大無量寿経の説のごとし。

即ち疑城胎宮これなり。

『教行信証』「化身土巻」冒頭の文です。

『正信偈』に親鸞聖人は源信僧都の功績を讃嘆して、源信僧都は

「報化二土正しく弁立せり」

と述べられます。

報土である阿弥陀仏の浄土に、なぜ

「化土」

が存在するのでしょうか。

その理由を源信僧都が『往生要集』で、疑心の者は

「胎宮」

に生まれ、懈慢の者は

「懈慢界」

に生まれると、明かされたといわれるのです。

このような考え方は、中国浄土教からの伝統的解釈だといえます。

そこで親鸞聖人もまたこれらの解釈を受けて、

『菩薩処胎経』

に説かれる

「懈慢界」や

『大経』の

「疑城胎宮」を

「化身土」

と捉えられることになります。

ところで、源信僧都が

「報土」

と見られた阿弥陀仏の浄土は、まさに

『観無量寿経』

に説かれている浄土にほかなりません。

けれども親鸞聖人は、この

『観経』

に説かれる阿弥陀仏の相好とその浄土の荘厳を、

「化身土巻」

でまずに、化仏であり化土だと見られます。

このような浄土のとらえ方をしているのは、純正浄土経の流れにおいては、親鸞聖人以外には誰もおられません。

中国及び日本の浄土経では、

『観経』

の教えを通して阿弥陀仏の浄土を見、その

「真身観」

に出現する阿弥陀仏を礼拝し、西方の浄土に往生することを願っているからです。

したがって、浄土経一般では、

『観経』

が方便の経典だということはありえず、この経に説かれる阿弥陀仏とその浄土こそを報仏報土だと見ていたと考えられます。

では、なぜ親鸞聖人は

『観経』

に説かれる仏身仏土を化身化土とされたのでしょうか。

その理由は

「真仏土巻」

ですでに明確に証されているところですが、要はこの巻の次の冒頭の一言に尽きるのではないかと思われます。

謹んで真仏土を案ずれば、仏は即ちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土となり。

しかれば即ち、大悲の誓願に酬報するが故に、真の報仏報土といふなり。

すなわち、親鸞聖人にとっての真仏真土とは、光明無量・寿命無量の誓願に酬報して成就された、

「不可思議光」

そのものであったからにほかなりません。

そのため

「不可思議光」

の本性を『涅槃経』の、真解脱・虚無・如来・仏性・涅槃等の語によって解釈されます。

これは、親鸞聖人が真の仏身仏土を存在論的に捉えてはおられなかったことを意味しています。

『無量寿経』

によれば、阿弥陀仏は十劫の昔に成仏し、その国土はここを去ること十万億刹の西方にあり、安楽と呼ばれ、自然の七宝によって荘厳されていると説示されていますが、そのような浄土の存在論的解釈の一切を親鸞聖人は方便化土と解されていたことになります。

もちろんその主著

『教行信証』

において、真実を語る巻でも

「西方」

「十劫」

といった言葉は見られますが、浄土の本質を示される箇所では、このような考え方は見出せません。

「人間の本当に生きる道」(上旬)十二かける三は

======ご講師紹介======

三遊亭好楽さん(落語家)
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私たちはずいぶん嘘を言ったり、聞いたりしています。

役に立つ役にたたん、間に合う間に合わないというところで人を見ていませんか。

「あの人昔はよう間にあっていたのに、最近とんと間に合わなくなったね」

「うちのおばあちゃん八十八歳ですけど、最近は電話番もできんようになって役に立ちません」

そのような見方が虚盲なんです。

仏さまから見れば、八十八歳であろうが一歳であろうが関係ないんです。

仏さまはみんな尊い命とご覧になるんです。

私は以前、脳溢血で倒れたんです。

血圧が二百八十まで上がり脳内出血して、四時間ほど意識がありませんでした。

三人のお医者さんのうち、一人の若い先生がびっくりして、はよ知らさないかん思うて、待合室にいる私の家内と子どもたちに

「ご主人は相当悪いようですから、ようなられたとしても半身不随は免れません。

ひょっとしたら、今晩がヤマですから、一応親戚の人にお知らせください」

と言われたそうです。

家族は、フッとしって倒れたぐらいに思っておりましたから、そう先生から聞かされてびっくりしたそうです。

そして

「お通夜何時しよか。

お葬式は、だれ呼んだらええやろか」

と瞬間に思ったそうです。

それから救急室に入って、四時間後に気がつきました。

フッと目を覚ますと、お医者さんが尋ねました。

「都呂須さん、生年月日はいつですか」

「一九三七年二月二十八日」

「昭和十二年」

と言うたらお医者さんもすぐわかって、

「ああ、丑年ですな」

といらんこと言うから、国際歴で答えたんです。

指で数えながらお医者さん、びっくりしてはった。

それから、ろれつは回るか、記憶はええか、

「十二かける三は」

と言わはる。

「三十六」。

それで顔を見合わせて、意識も記憶も口も達者だというので、集中治療室に移されたんです。

しばらくすると看護士さんが病状を見に来てくださいまして、

「奥さまとお子さまが待合室におられますけども面会されますか」

と言われました。

家内は

「親戚に知らせなあかんほどの重病や。

ひょっとしたら半身不随になるかもわからん」

と聞かされてましたから、それが面会できるということでびっくりしてね。

私もたった四時間前に別れただけなのに、まるで三十年前のように涙がワッと出てきて

「母さん」

と言うた。

家内も

「父さん」

と言うて、久しぶりに手を握り合ったんです。

そのときに、家内がいみじくも

「父さん、もう五年は長生きしてね」

と言ったんです。

手術はしなかったですけど、いろんな治療のあとでボーとしてますから、私もとにかく嬉しゅうて嬉しゅうて

「生きるよ、生きるよ」

と言うておったんです。

やがて彼らが着替えを持ってくると言って帰って生きまして、フッと一人になって思うたんです。

「なんで五年やねん」。

考えてみると、長男がその当時二十三歳ですから、五年たったら二十八歳ですね。

次男は二十六歳になる。

そうすると、お父さんのやっかいにならなくてもいいかなと思うたんちゃいますか。

直接聞いてませんよ、怖いから。

だから、でも、もう賞味期限切れてるんです。

『すべての歩みがあなたになっていく』

「お家に帰る。お家に帰る」

4月の入園当初、小さな体をこわばらせて、必死に訴えていた3歳の男の子がいました。

はじめて家庭を離れて、知らない人ばっかりのところに来たのですから、当然ですよね。

先生たちは、この子の不安に寄り添いながら一緒に生活してきました。

あれから一年。

あの男の子の姿を探すと、ああ、いました。いました。

気の合う何人かのお友だちと一緒に、楽しそうに笑いながら、砂場で遊んでいます。

最近は、砂場で山を作ってみんなと遊ぶのが大好きなんです。

もちろん、もうお家に帰るなんて言いません。

さあそこで、いっぱい経験している大人は云います。

「ほらね。

心配しなくても大丈夫だったでしょ。

時間がたてば大丈夫なのよ。」

そうですね。

でも、ただ時間が過ぎたから彼は今の彼になったんじゃないんです。

はじめに

「お家に帰る」

と泣いたのは、お家が彼にとって本当に安心できる場であったからです。

そんな場があるからこそ、次のステップ(新しい園という環境に飛び込むこと)が踏めたのです。

知らない場所への不安をいっぱい抱えながらも。

そして不安をいっぱい抱えながら、彼は、たくさんのことを経験することができました。

知らないことに出会い、戸惑い、新しい人と出会い、ぶつかったり、楽しんだり、泣いたり、怒ったり、笑ったりしてきたのです。

そして今、友だちと砂まみれになっている彼がいるのです。

子どもたちの笑顔はいつ見ても元気をもらうものですが、反面子どもたちの泣く顔、困った顔を見るのはつらいものです。

きつい思いをさせたくないと思うこともありますが、つらいこともたくさん経験したから、彼は成長できた事を忘れてはなりませんね。

ひとつひとつの経験(歩み)があって、彼は彼になったのです。

きつい思い、しんどい経験をしたくないのは、大人も同じです。

できる限り楽をしたい、何でも思い通りに行ってほしいと思っています。

でも、こんなことを考えてみてください。

もし、何でも思い通りになっていたら、きつい思いもすることがなかったら、

あなたは今のあなたであれたでしょうか。

GReeeeNが、

「歩み」

という歌の中で、

「どんな一歩も無駄にならない。

どんな一歩も君になっていく」

と言っています。

どう思います?

どんな人にも、楽しいことだけでなく、辛かったこと、しんどかったことがいっぱいあったと思います。

なんで自分がこんな目に会うんだと恨めしく思ったことも、あったかもしれません。

でも、そんなひとつひとつの経験が、今のあなたにしてくれているのではないですか?

人を思いやり、ともに涙することができるあなたに。

悲しみの体験が、人の痛みへの共感を育て、豊かなつながりを作ってくれるのでしょう。

きつい中で支えられた喜びが、人への限りない敬愛の思いを育ててくれるのでしょう。

「どんな一歩も無駄にならない、どんな一歩も君になっていく」

その通りだと思いませんか。

親鸞聖人における「真俗二諦」4月(後期)

さて今日、真宗者が問題にしている真俗二諦論は、明治以後に現れた思想です。

この思想の特色は、その当時の人々が自分の論を権威付けるために、覚如上人・存覚上人・蓮如上人の文言を取り入れ、そこに

「真俗二諦」

という言葉を重ねて、近代感覚にかなう、全く新しい真宗の思想を打ち立てたということです。

ところが、その思想が戦後、親鸞聖人の思想にまったく違うものだという厳しい批判を受けるに至りました。

その時、批判者は明治から昭和の、殊に戦時中説かれた真俗二諦の論を批判する際に、その思想の根拠を覚如上人・存覚上人・蓮如上人の上に見出し、これらの方々にあたかも真俗二諦の思想があるかのように批判しました。

けれども、これは明らかな誤りだと言わねばなりません。

明治以後に出された真俗二諦の思想は、親鸞聖人の真俗二諦の思想とは全く異質の思想です。

親鸞聖人は

「末法の世では、仏教が意味する真俗二諦は成り立たない」

と言っておられるのであり、親鸞聖人の念仏思想は、世俗の法と同一の次元で対立するものではありません。

したがって、親鸞聖人は個として、この世間を自由自在に歩むことが可能だったのです。

ところが、覚如上人以後の方々はそうではありませんでした。

真宗教団という、ひとつの世俗の場での念仏者の組織を形成して、その中でこの世を歩もうとされたからです。

この場合、念仏者の生活は、世俗の法と同一の次元で真っ向から対立することになります。

覚如上人・存覚上人・蓮如上人が、念仏者の生活に大きな関心を払わなければならなかったのはそのためで、以後の真宗教団人は念仏思想と共に、国家の法とどうかかわるかということが最大の関心事になるのです。

今日その念仏思想と国家の法との関係を、私たちは

「真俗二諦」

という言葉を通して論じようとしています。

末法の世を、私たちが歴史的現実の中で生きるためには、念仏者が世俗の法とどう関わるかを問わなければ生きることは出来ません。

その生き方は、あらゆる面で多くの過ちを含んでいることはいうまでもありません。

念仏の法門を聞き、精一杯生きながら、どのような時代にどのような過ちを犯すものであるのか、それを知ることが浄土真宗の教団史なのです。

「真俗二諦」

という言葉に惑わされて、間違った角度から覚如上人や蓮如上人の生き方を批判するのではなく、その時代その社会において、真宗者がどう歴史とかかわったかということを、私たちはあきらかにしていくことが大切だといえます。