投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『すべての歩みがあなたになっていく』

「お家に帰る。お家に帰る」

4月の入園当初、小さな体をこわばらせて、必死に訴えていた3歳の男の子がいました。

はじめて家庭を離れて、知らない人ばっかりのところに来たのですから、当然ですよね。

先生たちは、この子の不安に寄り添いながら一緒に生活してきました。

あれから一年。

あの男の子の姿を探すと、ああ、いました。いました。

気の合う何人かのお友だちと一緒に、楽しそうに笑いながら、砂場で遊んでいます。

最近は、砂場で山を作ってみんなと遊ぶのが大好きなんです。

もちろん、もうお家に帰るなんて言いません。

さあそこで、いっぱい経験している大人は云います。

「ほらね。

心配しなくても大丈夫だったでしょ。

時間がたてば大丈夫なのよ。」

そうですね。

でも、ただ時間が過ぎたから彼は今の彼になったんじゃないんです。

はじめに

「お家に帰る」

と泣いたのは、お家が彼にとって本当に安心できる場であったからです。

そんな場があるからこそ、次のステップ(新しい園という環境に飛び込むこと)が踏めたのです。

知らない場所への不安をいっぱい抱えながらも。

そして不安をいっぱい抱えながら、彼は、たくさんのことを経験することができました。

知らないことに出会い、戸惑い、新しい人と出会い、ぶつかったり、楽しんだり、泣いたり、怒ったり、笑ったりしてきたのです。

そして今、友だちと砂まみれになっている彼がいるのです。

子どもたちの笑顔はいつ見ても元気をもらうものですが、反面子どもたちの泣く顔、困った顔を見るのはつらいものです。

きつい思いをさせたくないと思うこともありますが、つらいこともたくさん経験したから、彼は成長できた事を忘れてはなりませんね。

ひとつひとつの経験(歩み)があって、彼は彼になったのです。

きつい思い、しんどい経験をしたくないのは、大人も同じです。

できる限り楽をしたい、何でも思い通りに行ってほしいと思っています。

でも、こんなことを考えてみてください。

もし、何でも思い通りになっていたら、きつい思いもすることがなかったら、

あなたは今のあなたであれたでしょうか。

GReeeeNが、

「歩み」

という歌の中で、

「どんな一歩も無駄にならない。

どんな一歩も君になっていく」

と言っています。

どう思います?

どんな人にも、楽しいことだけでなく、辛かったこと、しんどかったことがいっぱいあったと思います。

なんで自分がこんな目に会うんだと恨めしく思ったことも、あったかもしれません。

でも、そんなひとつひとつの経験が、今のあなたにしてくれているのではないですか?

人を思いやり、ともに涙することができるあなたに。

悲しみの体験が、人の痛みへの共感を育て、豊かなつながりを作ってくれるのでしょう。

きつい中で支えられた喜びが、人への限りない敬愛の思いを育ててくれるのでしょう。

「どんな一歩も無駄にならない、どんな一歩も君になっていく」

その通りだと思いませんか。

親鸞聖人における「真俗二諦」4月(後期)

さて今日、真宗者が問題にしている真俗二諦論は、明治以後に現れた思想です。

この思想の特色は、その当時の人々が自分の論を権威付けるために、覚如上人・存覚上人・蓮如上人の文言を取り入れ、そこに

「真俗二諦」

という言葉を重ねて、近代感覚にかなう、全く新しい真宗の思想を打ち立てたということです。

ところが、その思想が戦後、親鸞聖人の思想にまったく違うものだという厳しい批判を受けるに至りました。

その時、批判者は明治から昭和の、殊に戦時中説かれた真俗二諦の論を批判する際に、その思想の根拠を覚如上人・存覚上人・蓮如上人の上に見出し、これらの方々にあたかも真俗二諦の思想があるかのように批判しました。

けれども、これは明らかな誤りだと言わねばなりません。

明治以後に出された真俗二諦の思想は、親鸞聖人の真俗二諦の思想とは全く異質の思想です。

親鸞聖人は

「末法の世では、仏教が意味する真俗二諦は成り立たない」

と言っておられるのであり、親鸞聖人の念仏思想は、世俗の法と同一の次元で対立するものではありません。

したがって、親鸞聖人は個として、この世間を自由自在に歩むことが可能だったのです。

ところが、覚如上人以後の方々はそうではありませんでした。

真宗教団という、ひとつの世俗の場での念仏者の組織を形成して、その中でこの世を歩もうとされたからです。

この場合、念仏者の生活は、世俗の法と同一の次元で真っ向から対立することになります。

覚如上人・存覚上人・蓮如上人が、念仏者の生活に大きな関心を払わなければならなかったのはそのためで、以後の真宗教団人は念仏思想と共に、国家の法とどうかかわるかということが最大の関心事になるのです。

今日その念仏思想と国家の法との関係を、私たちは

「真俗二諦」

という言葉を通して論じようとしています。

末法の世を、私たちが歴史的現実の中で生きるためには、念仏者が世俗の法とどう関わるかを問わなければ生きることは出来ません。

その生き方は、あらゆる面で多くの過ちを含んでいることはいうまでもありません。

念仏の法門を聞き、精一杯生きながら、どのような時代にどのような過ちを犯すものであるのか、それを知ることが浄土真宗の教団史なのです。

「真俗二諦」

という言葉に惑わされて、間違った角度から覚如上人や蓮如上人の生き方を批判するのではなく、その時代その社会において、真宗者がどう歴史とかかわったかということを、私たちはあきらかにしていくことが大切だといえます。

「歎異抄に学ぶ人間」−私とは−(下旬)大いなる真実へ

また、往生というのは、その喜びの心を持って与えられたいのち、いつまでか分からないけれども、きちっと懸命に生き抜くことによって、帰るべき世界を頂くことが出来る。

往生というのはそういう世界のことです。

単なる人間の死とは違うんですよ。

往生のことを親鸞聖人は

「新たなるいのちの始まり」

ともおっしゃっています。

そして第四章、ここには

「人間の愛情には限界がありますよ」

と説いてあります。

ある37歳の女性の話ですが、この女性は一生懸命働いて、もうあとわずかでマイホームが完成するという時に、ご主人が三カ月のいのちだと告知されたんです。

その女性はどう考えたかというと、

「家なんかいらない、主人の病気が治ってほしい」と。

でもご主人は亡くなってしまいました。

そして、浄土真宗のあるご住職がお通夜の席で

「慈悲に聖道浄土のかわりめあり。

聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。

しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」

とお話されたそうです。

つまり、人間の愛情というのは、どんなに深い愛であっても、変わることができないということですね。

その言葉をお通夜の席で聞いたけど、その女性は自分の主人が30代で死ぬなんて自分の人生設計になかったわけですから、受け止められなかった。

そして七回忌の法事のときに、その女性がご住職におっしゃった言葉が

「主人が亡くなってくれたお蔭で、生きるということがどういうことか、少し分からせていただきました」。

ご縁のある方には、大事な方と別れたそこから、大いなる真実に出遇う方がいらっしゃるんですね。

その方にとって、ご主人は永遠に生きていらっしゃるということなんです。

これが、仏法の世界だと思うんです。

また、子どもさんを亡くされたあるお母さんがこう言われました。

「この子は、死んでからも私を育ててくれる」と。

亡くなってからも育ててくれるということは、そのお母さんにしって

「私より若い子どもが、なぜ私を置いて先に死んでいくのか」

ということが宿題、課題になり、そのことをずっと考えてきた結果、いろんなことを子どもの死によって気付かせていただいたということなんですね。

つまりこの第四章というのは、私たち人間の愛の不徹底さ、そして、このことに深く目覚めながら、真実の生き方をすることの大切さが説かれてあるのです。

でもそのためには、本当の教えに出遇い、自らが救われていかなければならないんです。

亡くなった方を救うことはできないんです。

1ヶ月ほど前に、隣の幼稚園から逃げた、インコを職場で保護しました。

1ヶ月ほど前に、隣の幼稚園から逃げた、インコを職場で保護しました。

黄色の可愛い、セキセイインコです。

逃げてから二日経過していたようで、インコはお腹をすかせて、大分弱っていました。

そして、ストレスからか卵(無性卵)を産んで、自分で食べちゃったりと・・・

すぐに、ご飯(エサ)をあげて、落ち着くまで、飼う事となりました。。。。

一ヶ月がたち、そろそろ幼稚園に返したほうがいいだろう、ということになり、

(心情的には、可愛くて、可愛くて、返したくない気持ちでいっぱいでしたが。)

職場の先輩が幼稚園の先生のところへ!!

先輩:『もう、インコはお返ししたほうがいいね。連れて行くね』

幼稚園の先生:『いやいや〜・・・実は飼育小屋にいる一匹のインコで強い、いじめっコがいて、ほかのインコをつついたり、毛をむしったりしてて・・・・(>_<)なので、そちらにいたほうがいいかもしれません・・・』

とのこと。

なので、引き続き、職場で飼うこととなりました。

私は、インコと離れたくなかったから、正直うれしいでした。

ただ、、思ったのは、

「インコの世界でもいろんな複雑な鳥関係があるんあだな〜っ」

てこと。

上下関係?力関係?のようなものが存在してるんだな〜って。

小さな飼育小屋の中で、逃げ去ることもできず、ただただ隠れたり、我慢しながら過ごしているインコちゃんたち。

なんか心がキュッっと痛みました。

人間社会もそうですよね。

仕事場での人間関係とか。

やめたら楽になるのだろうけど、生活のため、家族のため、世間体などから逃げることは出来なくて、我慢して我慢して働いている人たち。

学校生活もそうかもしれません。

やめるわけにいかなくて、人に相談することもできず我慢して我慢して通っている子たち。。。。

自分のことだけではなくて、常にアンテナをはって

『あれ!!!なんか様子がへんだな!』

って周りが気づいて、支えにならなくては。

セキセイインコを通して、フト・・・深く考えさせられたことでした。

最後に、黄色のセキセイインコ。

名前は『りーちゃん』です。

愛情をもって、責任をもって、育てていきたいと思っています。

『すべての歩みがあなたになっていく』

私たちは、自分の思いが行き詰まったりすると、

「なぜ私は、こんな私でなければならないんだろう…」

と歎いたりすることがあります。

そして

「あの人みたいだったら良いのに…」

とか、

「この人みたいだったら幸せなのに…」

と思ったりすることもあります。

けれども、どこまで行っても私は私以外の何者でもなく、またどれほど自分の身の不幸を歎いてみても、死ぬまでこの私として生きる以外に道はありません。

そうしますと、人生の途上において私に問われていることは、

「この私を、どこまで私として生き得ているか」

ということになるのではないでしょうか。

それは、

「あるがままの私をそのまま受け入れて、最後まで生き尽くそうとしているか」

ということです。

以前、

「自分が今どのような思いで生きているか」

ということについて、子ども達からマスコミにいろいろな投書が寄せられたことがありました。

その中に

「親の愛情といっても決して無条件のものではなく、親の思いにかなうことをしている時は愛してくれているけれども、ひとたび親の期待を裏切るようなことをすると、親は切り捨ててしまう。

だから自分は、親の気に入るように仮面をかぶる。

そして、学校では先生の気に入るような仮面、道を歩いている時は近所の人が褒めるような仮面、家へ帰ったら親が喜ぶような仮面。

一日中仮面をつけているので、夜寝る時には顔が痛い」

という文章を寄せた少女がいたそうです。

周りの要求に対して、

「自分が自分のままであることは許されない」

という空気を敏感に読み取り、必死の思いで仮面をつけて演技しているということの苦しさを訴えている訳ですが、実はこの文章は特別なものではなく、他の多くの子ども達も同様の思いを述べていたそうです。

考えてみますと、これは子どもだけの問題ではなく、私たち大人も、自分の身を守るためにいろんな仮面をつけたりしてはいないでしょうか。

社会生活を営む上では、我慢をしいられたり、言いたい言葉を必死で飲み込んだりしなければならないことも少なからずあります。

特に今の社会は、

「気に入らないことがあれば、文句を言わなければ損だ」

といった風潮があり、苦情を受ける側に立たされると、多くのストレスを抱え込むことになります。

その結果、今度は自分が苦情を言う側に回ると、必要以上に不満をぶつけたり、時には怒りを爆発させたりといった悪循環を生むことにもなっているように窺えます。

ある一家の大黒柱であったご主人が交通事故で亡くなられた時、周囲の方々がその家の生活を心配して、慰謝料とかの配慮をされたのだそうです。

すると、日頃から仏法を聞いておられたその家のおばあさんは

「そうしてもらって、死んだ息子が帰ってくるのなら、どれだけでも努力はする。

しかし、これも因縁だ」

とおっしゃったのだそうです。

ただし、その翌日から、そのおばあさんは野菜を大八車に積んで町に売りに出られました。

ここで語られている

「因縁」

ということは、その因縁の事実にしたがって生きて行く、その歩みのことです。

「因縁だ」

と言ってそのことに腰をおろしているのであれば、それは単なる解釈に過ぎません。

けれども、それを因縁だと知るということは、このおばあさんのように、その因縁の事実にしたがって生きて行けるということです。

このような歩みを仏教では智慧といいます。

智慧とは、たとえ私の思いと現実とかどれだけ違っていたとしても、それが我が身の事実であるならば、その事実を事実として受け止め、それにしたがって生きていく力のことです。

したがって、たとえ自分の思いで選んだことでも、納得したことではなかったとしても、その事実を受け止めて、自分のありのままを生きようとする生き方。

私の選んだことではないけれども、その事実の他に私のいのちの事実はないと、はっきり引き受けて行く勇気。

これが、仏教でいう智慧です。

私の選びを超えて、私のいのちの事実として与えられてあることを、まさしく私のいのちの事実として責任を持ち、その事実を引き受けてこの人生を生き尽くしていきたいものです。

なぜなら、すべての歩みが私となっていくのですから。

親鸞聖人における「真俗二諦」4月(中期)

では、存覚上人はどうでしょうか。

存覚上人においては、

『破邪顕正抄』

の第十項

「仏法を破壊し、王法を忽諸するよしの事」

が問題になっています。

「仏法と王法は一隻の法なり」

という。

鳥の二つの翼のごとくあり、車の二つの輪のごとくであって、これらは一つが欠けると用をなさなくなるのである。

仏法と王法の関係はまさしくそうであって、仏法をもって王法をまもり、王法をもって仏法をあがめるのである。

ここに理想の国家があるのであって、上代から今日まで、我国の天皇も仏法者も、そうすべく努力してきたのである。

そこには例外はないのであって、聖道の行者も浄土の念仏者もそのようにして、天下の安穏を願ってきたのである。

とすれば私たち一向専念の真宗教徒のみが、どうして世俗の生活の根本理念を忘れ去ってよいことがあろうか。

そのようなことは、決してあってはならない。

存覚上人の文章は、このように解釈することが出来ます。

真俗二諦論では、この部分が問題ありとして指摘されているのですが、存覚上人がこの書の中で述べようとしておられる意図は、この箇所にあるのではありません。

次の部分に、存覚上人の主張の要点があるのです。

今その大意を示せば、次の通りです。

我々一向専念のともがらは、火宅無常の世にあって、曠劫より無限の苦悩を受けてきたのであるが、今この日本国に生まれ、幸いにも阿弥陀仏の仏法に出遇うことができたのである。

このものがどうして皇恩を忘れ、あだにすることがありえようか。

ところで我々念仏者は、この易行によってしか仏果に至りえないので、念仏一行を修し西方の往生を願っているのである。

この行がなぜ、王法に背き、仏法を破ることになるのか。

ところが、国家は理不尽にも、念仏者の真の姿、その求道の心をまったく見ないで、頭から一向専念の輩は仏法を破滅し、王法を軽んずる者だとして、眼に余る迫害を加えている。

これはもってのほかだといわねばならない。

以上が後半に見る存覚上人の主張です。

前半の部分においても、仏教が意味する

「真俗二諦」

の思想に重なるものではありませんが、全体的に見て仏教の真俗二諦がなぜここで問題になるのか、それは存覚上人の知らざるところだというべきではないでしょうか。

その意図するところを重視しないで、一部分だけを取り上げて批判する態度は厳に慎むべきかと思われます。