投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「人間の本当に生きる道」(下旬)身についた本能

二十五、六時間かかってサンパウロ別院に着きました。

着いたときは朝七時です。

ということは、日本でいえば夜の七時です。

ごはん食べてテレビ見て、さあ寝ようかという時間に向こうに着いたんです。

向こうの人にとっては普通ですけれど、私にとってはもう寝ようかという時間に、今度は市役所とか新聞社にあいさつに行って、そして午後二時から別院でお話させてもらうんですが、日本で言えば夜中の二時から話しているようなもんです。

それで四時にすみまして、それから控室に帰って四時半頃うちへ電話しました。

それがなかなか出えへんねん。

やっと出てきて、

「私や」

「どうしたの、何かあったん」

「今日は朝からもう大変やったん。それで今やっとお話が終わったん」

「そんなことやったら電話しないな。まだ明け方やでぇ」

「あ、そうや。十二時間の時差があるんやった」

実感がないんですね。

何よりも思うたのは、地球は丸いから、日本人が普通に歩いていたらブラジル人は逆立ちですわ。

でも、みんな日本人と同じように、地面に足をつけて歩いていらっしゃいましたね。

それが逆立ちで歩いとったら、地球は丸いんだなってわかりますよ。

しかし、宇宙という大きな世界から見た時に、初めて地球が丸いということが分かる。

宇宙から毛利衛さんたちが撮ってきはった写真なんか見て、本当に地球は丸いんだなって思います。

宇宙から見ないと地球の全体は分からないんです。

それと、太陽が東から上って西へ沈んでいくという我々の生活実感があるんですけど、違うんですね。

太陽は、動いてないですよ。

太陽の周りを地球が糧員しながら動いているんです。

これはコペルニクスとかガリレオという人がもうちゃんと指摘してくれてますから、間違いなんです。

しかし、生活実感として地球が回転しているって分かりますか。

「ときどきよろよろとなるんですよ」

って、それはだいぶ年いってんねん。

朝入れたお風呂の湯ぶねが、夕方全部ひっくり返っていたとかいうんやったら、

「ああ回転してんねんな」

と思いますけど、そやないでしょ。

宇宙から地球を見る、これこそが地球の全体がわかるんです。

同じように、人間が人間を見たって、人間を見たことにはならないんです。

だから、仏法という宇宙の法則から見た人間、私どもからしたら、阿弥陀さまの光に照らされて初めて私というものが見えてくるんです。

そうすると、忍ばねばならない苦悩の世界、虚盲の人生も見えてくるんですね。

平素は、人間が人間を、私が私を見てます。

そうすると、自分が一番かわいいもんですから、注意されたりすると言い訳をして自分をかばうんです。

争いというのは、そういうところから起こってくるんでしょうね。

例えば、物を不用意に落としたりしても、

「私が落としました」

と言わない。

「落ちました」

っていいます。

これは誰に教えられたものじゃないんです。

「自分を守る」

という、身に付いた本能です。

だから、辛抱しておっても

「私が辛抱しておるから」

となるんです。

辛抱しておることは間違いないんでしょうけれども、自分が辛抱しておっても、辛抱をまた周りからしてもろうておることが見えないんです。

先日、プロ野球観戦に行ってきました!

先日、プロ野球観戦に行ってきました!

福岡ソフトバンクVS千葉ロッテマリーンズ戦IN鴨池球場!!

野球はあまり詳しくない私ですが、鹿児島で行われる初めての公式戦という事で、観客席は満員でした。

席に着いた早々・・・生でみるプロ野球選手に大興奮!!

やっぱり体つき、☆オーラ☆が違いますね!

澄み切った青空の下、キャッチボールをする選手達はキラキラ輝いていました。

ピッチャーの投げる球のスピードの迫力に、観客席から

「おおーっ」

という歓声、拍手で観客席は大盛り上がり!

私も応援グッツとビールで楽しさ倍増(笑)

楽しい時間はたつのは早いですよね!

アッという間に試合は9回!

2点差でソフトバンクが勝っていました。

ソフトバンクは、抑えのピッチャーが出てきて必勝パターンかと思いきや・・・

「野球は9回から!」

って言われてる通り!!

9回表で2点差を追いつかれて、さらには、逆転されてしまいましたぁぁぁ・・・

ソフトバンク9回裏の攻撃!

なんと、小久保選手のサヨナラヒットでソフトバンク逆転サヨナラ勝利★★★

本当にハラハラ!ドキドキ!

面白い試合でした。

また機会があったら、是非見に行きたいです

『生まれてくれてありがとう生んでくれてありがとう』

初めてわが子の誕生を迎える時の大半の人々の思いは、

「とにかく無事に生まれてくれれば、もうそれだけでいい」

といったことではないでしょうか。

そして、まだ子どもが赤ちゃんの時には、朝が来るたびに、その笑顔を目にすることができるだけで喜びがこみあげ、

「生まれてくれてありがとう」

という思いが胸にひろがったりするものです。

けれども、成長を遂げて行く過程で、子どもが自分の思い通りに育ってくれている時には、そのような思いもある程度持続したりするのですが、時として子どもが道を逸れたり、あるいは自分の期待と違う道を歩み始めたりすると、いつの間にか誕生の瞬間の感動は消え去って

「何でこんな子が生まれてきたのか」

と、知らず知らずの内にため息をつくことがあったりします。

「仏説観無量寿経」

の中にも、王妃イダイケが、ダイバダッタに唆(そそのか)されたわが子アジャセによって夫ビンビサーラ王が城の奥深くに幽閉された時、

「私は、過去世のどのような罪によって、このような悪い子を生んでしまったのでしょうか」

と悲嘆にくれる箇所があります。

どれほど時代を経ても、わが子が自分の意に添わない時には、誰もが

「こんなはずではなかったのに…」

と、言いようのない寂しさに包まれてしまうようです。

確かに、子どもが親の期待通りに育ってくれると嬉しいものですが、しかしそうではないからといって、

「生まれてこなければよかったに…」

などとは、思うことのないようにしたいものです。

一方、私たちはどのような時に

「生んでくれてありがとう」

と感じるでしょうか。

人生は、自分の思い通りに行くことばかりではありません。

つまずいたり転んだりして行き詰まり、自分が自分であることが情けなくなって、布団をかぶって

「もう死んでしまいたい!」

と叫んだり、涙に枕を濡らす夜もあったりします。

あるいは、

「何でもっと賢く…」とか、

「容姿端麗に生んでくれなかったのか…」

と、親に愚痴ったり、親を呪ったりすることさえあったりもします。

もし、生まれる前にいろんな選択肢があって、

「男女どちらに生まれますか?」

「生まれる国や地域はどこが良いですか?」

「成人した時の身長や体重は?」

「得意分野は文系・理系、体育系・芸術系どのタイプにしますか?」

等といったアンケートがあればともかく、気がつけば既に誰もが

「私」

だったのです。

しかも、私たちの生きている事実は、一回限りで繰り返すことが許されず、誰に代わってもらうことも出来ず、どれほど永遠を願っても限りがあり、その人生の終わりはいつ私に訪れるか分かりません。

誰もが、このような四つの限定の上を生きているのです。

そうしますと、私たちが生きていく中で、

「生きる」

と本当に自分で言い切れるような積極性を持ち、あるいは充実感を持ち、そして一年を振り返って、あるいは一日を振り返って、

「ああ本当に生きた」

と自分のいのちを生活の中で実感するような感覚を持つことが出来なければ、なかなか自分が生まれたことを喜ぶのは難しいのではないでしょうか。

思えば、私たちの一生は、事実は死に向かっての人生にほかなりません。

しかしながら、その内実は

「生まれる」

という事実を一刻一刻と生きて行く生き方があります。

それを

「往生」

といいます。

「往」は往く

「生」は生まれる、

つまり毎日「往き生まれ」

て行くのです。

まさに、いのちが終わるその瞬間まで生まれ続けていくのです。

それは、悲しみにあえば、悲しみを通して、悲しまなかった時の自分ではなくて、悲しむ自分に新しく生まれるのであり、辛いことがあれば、辛いときがなかった時の自分ではなくて、辛いことを引き受けて行くような新しい自分に生まれるのです。

そして、苦しみや悲しみや、いろんな経験の中の煩いや、時には死にたいような思いや、いろんな経験のすべてを新しい自分に生まれる素材にしながら、いのちが終わる時まで生まれ続けていって、いのちの終わる時が一番新しい自分になって、

「生きてよかった」

と言える自分となって死んで行けるような人生を生きるとき、私たちは心から

「生んでくれてありがとう」

と言えるのではないでしょうか。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(5月中期)

では、和語の聖教はどうでしょうか。

例えば、親鸞聖人のお手紙

「有阿弥陀仏へのご返事」

という一通には、

この身はいまはとしきはまりてさふらへば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせさふらふべし。

という言葉が見られ

「浄土で必ずあなたをお待ち申し上げます」

と、ここでは浄土が場所的存在として捉えられています。

また浄土の荘厳を讃歌している

『浄土和讃』

においては、その第一首に

「弥陀成仏のこのかたはいまに十劫をへたまへり」

と述べられ、

『無量寿経』

の説にしたがって、阿弥陀仏を時間的存在として解しておられるようにも見られます。

けれども、それ以後に展開される讃歌においては、阿弥陀仏自体を

「法身の光輪」

「智慧の光明」

「解脱の光輪」

「光雲無碍如虚空」

「清浄光明」

等と表現され、その実態的な相好を破るとともに、浄土の衆生の全体を

顔容端正たぐひなし精微妙躯非人天虚無之身無極軆平等力を帰命せよ

として、

「虚無之身無極軆」

という、真如の相とされます。

では、浄土の荘厳が、存在論的な相好として述べられる場合はどうでしょうか。

七宝講堂道場樹方便化身の浄土なり十方衆生きはもなし講堂道場礼すべし

阿弥陀仏とその浄土が、場所的実態的存在として捉えられる場合は、やはり

『教行信証』

と同様、明確に

「方便の浄土」

と示しておられます。

そして、さらに時間的存在としての阿弥陀仏の十劫成道に関しても、

弥陀成仏のこのかたはいまに十劫とときたれど塵点久遠劫よりもひさしき仏とみへたもふ

無明の大夜をあはれみて法身の光輪きはもなく無碍光仏としめしてぞ安養界に影現する

久遠実成阿弥陀仏五濁の凡愚をあはれみて釈迦牟尼仏としめしてぞ迦耶城には応現する

と、『無量寿経』に説かれる

「十劫成仏」

の阿弥陀仏の本性を、塵点久遠劫よりもさらに久しい

「久遠実成阿弥陀仏」

と解され、その時間的有限性が完全に除かれています。

加えて親鸞聖人は、和語の聖教では浄土の方向を

「西方」

という場で捉えておられる箇所は、一つも存在しません。

このように見れば、親鸞聖人の浄土観は、和語聖教においても

『教行信証』

の思想と、まったく同一の基盤にあるというべきで、むしろ

『教行信証』

を通して、その理念が確立されていたがゆえに、和語において浄土の本質をより平易な言葉で表現できたのではないかと思われます。

そうだとすると、和語の聖教を通して、逆に難解な

「真仏土巻」

の思想を垣間見ることができるのではないかと思われます。

そこで、和語聖教において、阿弥陀仏と浄土の本質を問題にしておられる次の二箇所に注目し、親鸞聖人における阿弥陀仏とその浄土について考察してみたいと思います。

一、『末燈鈔』第五通

「自然法爾(じねんほうに)」の文

二、『唯信鈔文意』

「極楽無為涅槃界(ごくらくむいねはんがい)」の文

「人間の本当に生きる道」(中旬)地球の裏に来た

どこかで私たちは、

「役にたつから好きだ」

「自分に都合がええから好きだ」

「自分に都合が悪くなると嫌いになる」

と思てませんか。

「そんなふうに人を見てません」

とよく言いますけど、私も家内が二、三日留守にすれば不便を感じますから、

「そばにおったら便利」

というところでつながってるんかなと思うてしまいます。

人間の愛というのはやはり、親鸞聖人がおっしゃるように

「妄愛」、

嘘の愛なんですね。

「あなたを愛します」

と言いますけど、

「愛するっていうことは、喧嘩することや、嫉妬することや、憎むことだってあるんだよ」

というのと一緒なんです。

愛と憎しみは裏表ですから。

しかし、愛の反対は憎しみじゃありません。

愛の反対は無関心なんです。

愛と憎しみは一つなんです。

一つの心の表裏なんです。

だから、憎しみがずっと向こうにあるんじゃなくて、いつも家族愛、夫婦愛、兄弟愛、すべての愛につきまとうんです。

『歎異抄』に

「さるべき業縁の藻よ干さば、いかなるふるまひもすべし」

とあるように、腹たてないかんような、争わなきゃならんような縁がきたら、パッと変わる。

さっきまで仲良うご飯を食べておっても、ちょっとしたことで喧嘩になることもあるんです。

そういうことを知ることが大事なんです。

「自分は間違うたこと、後ろ指をさされるようなとしてへん」

「自分は正直に一生懸命生きてきた」と。

それはそうかもしれないけれども、そっからはええもんは出てこないんです。

親鸞聖人の人間性というのは、そういうところにあるんです。

つねに仏さまに照らし出されておる私、私が見た私じゃなくて、お医者さんが見た私じゃなく、あるいは心理学者が見た私じゃなくて、仏さま、つまり目覚めた方によって見られた人間というもの、これがなければ、結局は上っ面のうそばっかり見ていることになります。

例えば、地球が丸いということはよくご存知ですね。

しかし、地球は丸いというよりも、どこまで行っても平坦だというのが我々の生活の実感ですね。

だから東西南北というものがあるんですが、私たちはそうやって限定してものを考えているんです。

東をどんどん行けば西に、南に行けば行くほど来たに行きます。

地球は丸いんですから。

ところが、丸いということが私たちの生活実感の中にないんです。

以前、南米に寄せていただいたことがあります。

そのとき、ご門主にあいさつに行ったんですが、ご門主が

「都呂須さん、日本が表でブラジルは裏、地球の裏に来ましたということをよく言いますけど、それは絶対におっしゃらないでください。

表も裏もありませんから。

それと、南半球と北半球の違いですから、すべてが真反対であるということをもつに記憶しておいてください」

とおっしゃいました。

真反対ですから、十二時間の時間差があるんですね。

『倶会一処』

一般に墓石には

「○○家之墓」

と刻まれているのを目にしますが、浄土真宗では

「南無阿弥陀仏」

あるいは

「倶会一処」

と書くのが本来のあり方です。

「南無阿弥陀仏」

は名号ですが、

「倶会一処」は

『阿弥陀経』

に述べられている言葉で、釈尊が私たちに阿弥陀仏の浄土の素晴らしさを説かれた後、

「この教えを聞いた人々は、全て念仏を称えて浄土に生まれたいと願いなさい」

とお勧めになります。

なぜなら、浄土は無限の輝きの中にあり、いかなる苦も存在しないからですが、それよりも必ず仏になられる、すぐれた方々と

「倶に一処で会う」

喜びに満たされていることをその理由として示されます。

人生における最大の喜びの一つは、すばらしい人との出遇いであり、また人生の喜びを愛する人と語り合うことだと言えます。

ただし、それが最大の喜びであればあるほど、最愛の人との別れは、その人にとって最も深い悲しみになると言わねばなりません。

ところで、この世が無常の理に置かれている以上、よき人との出遇いや、愛する人との語らいはやがて破綻を迎えることになります。

人生の苦しみの一つに、嫌な人、憎悪すべき人と顔を合わせなくてはならない時があります。

しかも人生の途中で、長い年月、それを強いられますとやりきれません。

けれどもこの世は、私の意のままに動いているのではありませんから、人生は往々にして憎むべき人と憎悪し合って生きなければならなくなります。

だからこそ釈尊は、怨憎すべき者が誰一人もいない、素晴らしい人々に囲まれ、愛すべき人と永遠に語り合える浄土を願いなさいと、私たちに教えて下さるのです。

それが

「倶会一処」

という言葉だと窺えます。

では、なぜこの世は、このように愛する人と別れなければならない一方、憎しみあわなくてはならない人とも顔を合わせて生活しなければならないのでしょうか。

この世の人々は誰しも、自分自身を中心として勝手気ままな行動を取っているからで、無限の因が無数に関係し合って無秩序な結果を導き出しているからです。

したがって、いつ誰と出会うが分からない状態に置かれていると言わなければなりません。

様々な人が、心のままに無数の因を作って、様々な迷いの果を導いているのです。

そこで釈尊は

『阿弥陀経』

で続いて

「少しの善根や福徳を積んだだけでは、今まで行ってきた迷いの因縁を断ち切ることができず、阿弥陀仏の浄土に生まれることは不可能です」

と述べられ、だからこそ仏行の中で最大の功徳の有する念仏を行ぜよと、私たちに教えられるのです。

この世の迷いの一切は、各自が無数の迷いの因を作っているからです。

もしここに、同一の因縁がはたらけば、結果が同一であることは言うまでもありません。

だとすれば、すべての者が阿弥陀仏の浄土に生まれ、証に至る同一の因縁に私たちがもし出遇うことが出来るとすれば、私たちは全て同一の果を得ることになります。

そこで、曇鸞大師はこの釈尊の教えを承けて、同一に念仏して共に阿弥陀仏の浄土に生まれようではないかと勧めておられます。

それは、念仏に導かれたご先祖の全体が生かされている場でもあるのです。