投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

3月に起こった東日本大震災より発生から3ケ月程経ちました。

3月に起こった東日本大震災より発生から3ケ月程経ちました。

未だに多くの安否のわからない方々がいらっしゃいます。

また、避難所での生活を余儀なくされている方々や、福島原発の周辺では住み慣れた土地からの退去を強いられている方々もおいでです。

その窮状を伝え聞く度に、本当に胸が痛むとともに、今回の震災被害が及ぼしている深刻さを痛感させられることです。

特に今回の事で、原発の問題については、多くの方がいろいろなことを考えさせられたのではないかと思います。

「安全」

の名のもとに推し進められてきた原発政策が決してその名の通りではなかったこと。

震災後、次々と明らかになる深刻な事態に、政府や電力会社に不信感を覚える人も少なくないと思います。

大自然の力の前には、人間の力がいかに無力であるかという事を今さらながらに思い知らされたことですが、その一方で人間は自らが作り出したものであっても、ひと度予測を超えるような出来事に直面すると、自からの思うように扱う事の出来ない現実を目の当たりにして、

「科学万能主義」

に陥っていた私たち人間の思い上がりや愚かしさに気付かされたことです。

ただ今、京都の御本山(西本願寺)においてお勤まりになっております

『親鸞聖人750回大遠忌法要』

において、御門主様の

「お言葉」

の中に

「人間の知恵には限りがあるが、欲望には限りが無い」

とありました。

経済活動を優先した人間中心の考え方は、もうすでに破たんをきたしており、私たちは快適さや便利さ追い求めるあまりに、自分達で自らの首を絞めているのかもしれません。

私たちの住むこの世界、この国は、今ここに生きる私たちのモノではありません。

先祖から受け継ぎ、また同じように子孫へと残していかなければならないものです。

そのような連鎖の中で、生かされたいのちであると、仏教は私たちに教えてくれます。

仏法に照らし出された私のありのままのすがたは、どこまでも自分中心のものの見方を離れることの出来ない、愚痴なるすがたです。

その気づき、自覚の中で世の中のことに関わっていく。

まさに本来の仏弟子、念仏者たる生き方が今こそ問われているような気がいたします。

『流す涙に育てられるものもある』

イギリスのファラデーという科学者は、大学の科学科の学生達に一本の試験管をもって、次のように尋ねたそうです。

「この試験管の中には、少量の液体が入っている。

何だと思う?」

学生達は、

「水分と少しの塩分です。」

と答えました。

するとファラデーは、

「先程、ある学生のお母さんが、私の所へ来られた。

子供のことが心配で、涙を流して語っていかれた。

母親の愛情の深さには、本当に心を打たれる。

その時の涙がこの試験管の中に入っている。」

続けて学生達に

「確かに涙を科学的に分析すれば、少量の塩分と水分にすぎない。

しかし、この涙の中には、科学も分析しえない深い愛情がこもっていることを知らねばならない。」

と言われたそうです。

様々な状況で流す涙。

流す人の情という目には見えないものがあることを教えてくれます。

私は高校時代、親元を離れての生活でした。

親の目の届かないことをいいことに、好き勝手に生活しておりました。

ある時、学校で問題を起こし自宅謹慎になり、親の呼び出しを受けたことがありました。

私を叱る目には涙が浮かんでおりました。

その涙を見たとき、迷惑をかけた申し訳ない思いと、私を心配してくれていたことへの感謝の気持ちを覚えました。

目には見えないけれども、涙の中に親の情を感じたからです。

流す涙に自らを反省し、お育ていただいたことです。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(6月前期)

自然といふは、自はをのづからといふ。

行者のはからひにあらず。

然といふはしからしむるといふことばなり。

しからしむといふは行者のはからひにあらず。

如来のちかひにてあるがゆへに法爾といふ。

法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆへにしからしむるを法爾といふなり。

「自然法爾」の手紙の

「はじめ」の文です。

自然とは

「自」

はおのずから、

「然」

はそのようにさせる、という意味です。

そしてその

「おのずからしからしめる」

働きが、如来の衆生をして仏果に至らしめるはたらきを指すのです。

そこでこの自然の道理に対する、人間の

「はからい」

が最も戒められます。

この手紙に

「行者のはからいにあらず」

という言葉が繰り返されますが、それは人間の側の

「はからい」

の完全なる否定であって、自然の道理に人は絶対に自らのはからいを加えてはならないことをかたく戒めておられます。

それは、なぜなのでしょうか。

「如来のちかひにてあるがゆへに法爾といふ」

いわれますが、衆生が仏果に至りうるのは、ただ法のしからしめるところ、如来の

「御ちかい」

の徳の故にほかなりません。

真如の法の必然のはたらきによってのみ、衆生は無上涅槃に至ることが出来るのです。

こうして、衆生をして

「おのずから」

仏果に至らしめる、真如のはたらきが

「自然法爾」

と呼ばれます。

親鸞聖人は、この真如と阿弥陀仏の関係を

「かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とききならひてさふらふ」

と捉えられます。

真如の法は、一切の衆生を無上仏になさしめようと願われていますが、その無上仏の真理を衆生に知らしめるために、阿弥陀という仏が、衆生の

「はからい」

に先駆けて、法爾としてまします。

それ故に

「弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり」

と言われるのです。

この

「やう(様)」

とは様子、状態のことで、この場合、自然の道理とか本質といった意味になります。

また

「れう(料)」

とは、量りのこと、推し量ることであって、不明なることを明らかにする手段の意だと解されます。

そうしますと、阿弥陀仏とは真如が働いて、無上仏とは何かを凡夫に信知せしめるために出現した、真如そのものの

「はからい」

ということになります。

この真如のはからいこそが、

「弥陀仏の御ちかい」

にほかなりません。

そこで、この点を親鸞聖人はまた、

弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんとおもはぬを、自然とまふすぞとききてさふろふ。

と述べておられるのです。

「人生、好んで楽しもう」(上旬)「笑点」に出る人はみんな楽しい変わり者

======ご講師紹介======

三遊亭好楽さん(落語家)

☆演題「人生、好んで楽しもう」

6月のご講師は、落語家の三遊亭好楽さんです。

昭元21年東京生まれ。

昭和41年に故林家正蔵に弟子入りし、昭和56年に真打ちに昇進。

その後、日本テレビ「笑点」で大喜利メンバーに選ばれる。

昭和58年、師の林家正蔵の死去により、三遊亭円楽一門に移籍。

このとき三遊亭好楽とした。

一度「笑点」を降板するも、3年間の修行を経て、昭和63年に復帰。

現在もレギュラーとして活躍中。

テレビやCMにも出演し、全国的に講演を行う。

講演会では得意の話術を用いて「生きる喜び」を伝えている。

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面白いことがあると楽しいでしょう。

変わってる人というのは、なんか面白いんですよね。

私の場合も、子どもの自分から、変わっていたと思います。

私が子どもの頃ですと、大きくなったら、何になりたいかと聞かれたら、野球選手が人気ナンバーワンの職業でした。

ところが、私は変わってまして、先生とはこんなやりとりをしていました。

「お前は大きくなったら何になりたいんだ」

「天皇陛下です」

「何」

「天皇陛下になるんです」

「お前は変わり者だな」

という感じです。

友だちは

「ばかじゃねえか」

と笑ってました。

私は家に帰って、

「先生から将来何になりたいかって聞かれたから、天皇陛下になりたいって言ったんだけどさ、おれもなれるのかな」

と尋ねました。

それに対して

「うーん、家庭の事情で無理他」

と答えたのが、当時まだ元気だったお袋でした。

お袋も変わった人でしたね。

例えば、街をみなさんと一緒に歩いていて、誰か一人転んだとします。

人が転んで楽しいはずはないですよね。

「大丈夫ですか」

「おけがはありませんか」

と言うでしょう。

それが人情ですよ。

「ざまあみやがれ」

という人はいないですよね。

さて、その人が立ち上がって

「大丈夫です」

と言って、また一緒に歩き始めたとします。

ところが、また転んじゃいました。

2度転ぶというのは、よっぽどついていない人ですね。

それでも、みなさんなら優しいから、気の毒にと言って心配するでしょう。

ところが落語家、ましてや

「笑点」

に出ようという楽しい人間はみんな変わり者ですから、同じことは絶対言いません。

最初は

「大丈夫か」

と言って心配しますけどね、2度転んだ時は言わないんです。

「さっき転んだときに起きなきゃよかったのに」

とか言うんですよ。

年中面白いことばかり考えてる連中ですから、何か面白いことを言わなきゃと思っているんです。

変わってるでしょう。

さて、面白い人といえば、お酒飲みの酔っぱらいですね。

年がら年中奥さんに怒られてるんですよ。

そんな亭主にとって、奥さんに言われて一番嫌な言葉って、何だと思いますか。

それは

「あなた、また飲んできたの」

だそうですよ。

そんなこと言われると亭主は

「悪かったな」

なんて言いませんよ。

お酒の勢いを借りて

「バカやろう。

また飲んできたって言うけどな、男にはおつきあいがあるんだよ。

くたくたになって帰って来たってのに、何のねぎらいもなく、文句を言うのは許さない。

お前の顔なんて見たくもないから、酒持って来い」

って言って、焼酎をがぶがぶ飲んじゃうんですよ。

利口な奥様はそんなことは言いません。

帰ってきた亭主が酔っぱらっていたら怒っても損です。

やっぱり元気に働いてもらって、次の日も気持ちよく出発してもらった方がいいんですから、腹の中が煮えくりかえっても絶対に怒ったらいけません。

亭主だって怒られるのを覚悟してます。

だから、そこで逆に優しく迎えてあげるんです。

食べさせたり、飲ませたりしても身体に毒ですから、水飲ませてご機嫌で寝かせちゃいましょう。

優しくねぎらわれたら、悪い気はしません。

「明日も頑張ろう」

という気にもなります。

だから、亭主は立ててください。

亭主は大事に使えば、一生使えるんですから。

『生まれてくれてありがとう生んでくれてありがとう』

“抱いて抱かれて笑顔に笑顔さぞ嬉しかろ親も子も”

という詩があります。

拙寺では、この1年に誕生した赤ちゃんをお祝いする初参式を実施しています。

赤ちゃんを抱いた親の姿は、本当に美しいものです。

昔から

「子は授かりもの」

と言われます。

なかには子を作るという言い方をされる方も見受けられますが、なんとなく物作りみたいで情緒のない、乾いた響きに聞こえます。

ところで、一つのいのちが生まれてくるのには二人の親が必要です。

その親にも又親が必要です。

このように単純計算で10代遡ると、1,024人になるようです。

遡るほどに倍々で増え、決して縮まることのない、まさに無量としか言いようのない一つ一つのいのちの糸が切れずに繋がってあればこそのいのちであることに気付かせていただく時、人智を超えた大きな働きに驚嘆するばかりです。

親子としてめぐり合った、奇しきご因縁を大事に暖めていきましょう。

ただし、たとえ我が子でも所有物ではありません。

一人前に育つように仏様より授かったのだと受け止められれば、これこそありがたいといえるでしょう。

仏さまは我が子、人の子の区別なく、全ての人を一人子として育んでくださいます。

子育ては苦労が伴いますが、また楽しいものでもあります。

親も子も共に仏の子であるという自覚のもと、本当の意味での

「ありがとう」

の人生を歩んでいきたいものです。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(5月後期)

いったい、浄土真宗とはどのような仏道なのでしょうか。

仏道とは、仏の証果を得るために、一人ひとりが歩み求める道にほかなりません。

その浄土真宗について、親鸞聖人は

『教行信証』「証巻」において、

謹んで真実証を顕さば、則ちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり

と示され、この無上涅槃極果の内実を、

「滅度・常楽・畢竟寂滅・無為法身・実相・法性・真如・一如」

だと説かれます。

浄土真宗の行道はいうまでもなく念仏の一道ですが、この道がまさに、念仏者を無上涅槃に至らしめます。

そして、この浄土真宗の教法が、

謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向有り。

一には往生、二には還相なり。

往生の廻向について、真実の教・行・信・証有り。

と「教巻」冒頭で明かされ、その証果の一切、行も信も、因も果も、往も還も、そのすべてが

「阿弥陀如来の清浄願心の廻向成就」

によると語られます。

このように、浄土真宗の教法は、阿弥陀の

「誓願」

によって成就された、二種の廻向がすべてなのです。

さて、

『末燈鈔』

の第五通では、この

「誓願」

を次のように述べておられます。

ちかひのやうは、無上仏にならしめんとちかひたまへるなり。

無上仏とまふすは、かたちもなくまします。

かたちもましまさぬゆへに自然とはまふすなり。

かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはまふさず。

かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とまふすとぞききならひてさふらふ。

弥陀仏は自然のやうを知らせんれうなり。

阿弥陀仏の

「誓願」

は、一切の衆生を

「無上仏」

にならしめるために発起されているといわれます。

では、無上仏とはどのような仏なのでしょうか。

無上仏には

「かたち」

がありません。

「かたち」

が存在する仏や涅槃は、無上仏でも無上涅槃でもありません。

だからこそ、浄土真宗の真実証は、

「利他円満の妙位、無上涅槃の極果」

なのであり、証果そのものが

「畢竟寂滅・無為法身・実相・法性・真実・一如」

だと解されたのです。

ところで、この無上仏を親鸞聖人は

「かたちましまさぬ」

故に、

「自然とはまふすなり」

と説かれ、その

「自然」

のはたらきについて、

「かたちましまさぬやうをしらせん」

と、一切の衆生に無上仏を知らしめるために、無上仏が動いて阿弥陀という仏が現れてくださったのだととらえられます。

では

「自然」

の道理とは何でしょうか。