投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『生まれてくれてありがとう生んでくれてありがとう』

“抱いて抱かれて笑顔に笑顔さぞ嬉しかろ親も子も”

という詩があります。

拙寺では、この1年に誕生した赤ちゃんをお祝いする初参式を実施しています。

赤ちゃんを抱いた親の姿は、本当に美しいものです。

昔から

「子は授かりもの」

と言われます。

なかには子を作るという言い方をされる方も見受けられますが、なんとなく物作りみたいで情緒のない、乾いた響きに聞こえます。

ところで、一つのいのちが生まれてくるのには二人の親が必要です。

その親にも又親が必要です。

このように単純計算で10代遡ると、1,024人になるようです。

遡るほどに倍々で増え、決して縮まることのない、まさに無量としか言いようのない一つ一つのいのちの糸が切れずに繋がってあればこそのいのちであることに気付かせていただく時、人智を超えた大きな働きに驚嘆するばかりです。

親子としてめぐり合った、奇しきご因縁を大事に暖めていきましょう。

ただし、たとえ我が子でも所有物ではありません。

一人前に育つように仏様より授かったのだと受け止められれば、これこそありがたいといえるでしょう。

仏さまは我が子、人の子の区別なく、全ての人を一人子として育んでくださいます。

子育ては苦労が伴いますが、また楽しいものでもあります。

親も子も共に仏の子であるという自覚のもと、本当の意味での

「ありがとう」

の人生を歩んでいきたいものです。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(5月後期)

いったい、浄土真宗とはどのような仏道なのでしょうか。

仏道とは、仏の証果を得るために、一人ひとりが歩み求める道にほかなりません。

その浄土真宗について、親鸞聖人は

『教行信証』「証巻」において、

謹んで真実証を顕さば、則ちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり

と示され、この無上涅槃極果の内実を、

「滅度・常楽・畢竟寂滅・無為法身・実相・法性・真如・一如」

だと説かれます。

浄土真宗の行道はいうまでもなく念仏の一道ですが、この道がまさに、念仏者を無上涅槃に至らしめます。

そして、この浄土真宗の教法が、

謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向有り。

一には往生、二には還相なり。

往生の廻向について、真実の教・行・信・証有り。

と「教巻」冒頭で明かされ、その証果の一切、行も信も、因も果も、往も還も、そのすべてが

「阿弥陀如来の清浄願心の廻向成就」

によると語られます。

このように、浄土真宗の教法は、阿弥陀の

「誓願」

によって成就された、二種の廻向がすべてなのです。

さて、

『末燈鈔』

の第五通では、この

「誓願」

を次のように述べておられます。

ちかひのやうは、無上仏にならしめんとちかひたまへるなり。

無上仏とまふすは、かたちもなくまします。

かたちもましまさぬゆへに自然とはまふすなり。

かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはまふさず。

かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とまふすとぞききならひてさふらふ。

弥陀仏は自然のやうを知らせんれうなり。

阿弥陀仏の

「誓願」

は、一切の衆生を

「無上仏」

にならしめるために発起されているといわれます。

では、無上仏とはどのような仏なのでしょうか。

無上仏には

「かたち」

がありません。

「かたち」

が存在する仏や涅槃は、無上仏でも無上涅槃でもありません。

だからこそ、浄土真宗の真実証は、

「利他円満の妙位、無上涅槃の極果」

なのであり、証果そのものが

「畢竟寂滅・無為法身・実相・法性・真実・一如」

だと解されたのです。

ところで、この無上仏を親鸞聖人は

「かたちましまさぬ」

故に、

「自然とはまふすなり」

と説かれ、その

「自然」

のはたらきについて、

「かたちましまさぬやうをしらせん」

と、一切の衆生に無上仏を知らしめるために、無上仏が動いて阿弥陀という仏が現れてくださったのだととらえられます。

では

「自然」

の道理とは何でしょうか。

「人間の本当に生きる道」(下旬)身についた本能

二十五、六時間かかってサンパウロ別院に着きました。

着いたときは朝七時です。

ということは、日本でいえば夜の七時です。

ごはん食べてテレビ見て、さあ寝ようかという時間に向こうに着いたんです。

向こうの人にとっては普通ですけれど、私にとってはもう寝ようかという時間に、今度は市役所とか新聞社にあいさつに行って、そして午後二時から別院でお話させてもらうんですが、日本で言えば夜中の二時から話しているようなもんです。

それで四時にすみまして、それから控室に帰って四時半頃うちへ電話しました。

それがなかなか出えへんねん。

やっと出てきて、

「私や」

「どうしたの、何かあったん」

「今日は朝からもう大変やったん。それで今やっとお話が終わったん」

「そんなことやったら電話しないな。まだ明け方やでぇ」

「あ、そうや。十二時間の時差があるんやった」

実感がないんですね。

何よりも思うたのは、地球は丸いから、日本人が普通に歩いていたらブラジル人は逆立ちですわ。

でも、みんな日本人と同じように、地面に足をつけて歩いていらっしゃいましたね。

それが逆立ちで歩いとったら、地球は丸いんだなってわかりますよ。

しかし、宇宙という大きな世界から見た時に、初めて地球が丸いということが分かる。

宇宙から毛利衛さんたちが撮ってきはった写真なんか見て、本当に地球は丸いんだなって思います。

宇宙から見ないと地球の全体は分からないんです。

それと、太陽が東から上って西へ沈んでいくという我々の生活実感があるんですけど、違うんですね。

太陽は、動いてないですよ。

太陽の周りを地球が糧員しながら動いているんです。

これはコペルニクスとかガリレオという人がもうちゃんと指摘してくれてますから、間違いなんです。

しかし、生活実感として地球が回転しているって分かりますか。

「ときどきよろよろとなるんですよ」

って、それはだいぶ年いってんねん。

朝入れたお風呂の湯ぶねが、夕方全部ひっくり返っていたとかいうんやったら、

「ああ回転してんねんな」

と思いますけど、そやないでしょ。

宇宙から地球を見る、これこそが地球の全体がわかるんです。

同じように、人間が人間を見たって、人間を見たことにはならないんです。

だから、仏法という宇宙の法則から見た人間、私どもからしたら、阿弥陀さまの光に照らされて初めて私というものが見えてくるんです。

そうすると、忍ばねばならない苦悩の世界、虚盲の人生も見えてくるんですね。

平素は、人間が人間を、私が私を見てます。

そうすると、自分が一番かわいいもんですから、注意されたりすると言い訳をして自分をかばうんです。

争いというのは、そういうところから起こってくるんでしょうね。

例えば、物を不用意に落としたりしても、

「私が落としました」

と言わない。

「落ちました」

っていいます。

これは誰に教えられたものじゃないんです。

「自分を守る」

という、身に付いた本能です。

だから、辛抱しておっても

「私が辛抱しておるから」

となるんです。

辛抱しておることは間違いないんでしょうけれども、自分が辛抱しておっても、辛抱をまた周りからしてもろうておることが見えないんです。

先日、プロ野球観戦に行ってきました!

先日、プロ野球観戦に行ってきました!

福岡ソフトバンクVS千葉ロッテマリーンズ戦IN鴨池球場!!

野球はあまり詳しくない私ですが、鹿児島で行われる初めての公式戦という事で、観客席は満員でした。

席に着いた早々・・・生でみるプロ野球選手に大興奮!!

やっぱり体つき、☆オーラ☆が違いますね!

澄み切った青空の下、キャッチボールをする選手達はキラキラ輝いていました。

ピッチャーの投げる球のスピードの迫力に、観客席から

「おおーっ」

という歓声、拍手で観客席は大盛り上がり!

私も応援グッツとビールで楽しさ倍増(笑)

楽しい時間はたつのは早いですよね!

アッという間に試合は9回!

2点差でソフトバンクが勝っていました。

ソフトバンクは、抑えのピッチャーが出てきて必勝パターンかと思いきや・・・

「野球は9回から!」

って言われてる通り!!

9回表で2点差を追いつかれて、さらには、逆転されてしまいましたぁぁぁ・・・

ソフトバンク9回裏の攻撃!

なんと、小久保選手のサヨナラヒットでソフトバンク逆転サヨナラ勝利★★★

本当にハラハラ!ドキドキ!

面白い試合でした。

また機会があったら、是非見に行きたいです

『生まれてくれてありがとう生んでくれてありがとう』

初めてわが子の誕生を迎える時の大半の人々の思いは、

「とにかく無事に生まれてくれれば、もうそれだけでいい」

といったことではないでしょうか。

そして、まだ子どもが赤ちゃんの時には、朝が来るたびに、その笑顔を目にすることができるだけで喜びがこみあげ、

「生まれてくれてありがとう」

という思いが胸にひろがったりするものです。

けれども、成長を遂げて行く過程で、子どもが自分の思い通りに育ってくれている時には、そのような思いもある程度持続したりするのですが、時として子どもが道を逸れたり、あるいは自分の期待と違う道を歩み始めたりすると、いつの間にか誕生の瞬間の感動は消え去って

「何でこんな子が生まれてきたのか」

と、知らず知らずの内にため息をつくことがあったりします。

「仏説観無量寿経」

の中にも、王妃イダイケが、ダイバダッタに唆(そそのか)されたわが子アジャセによって夫ビンビサーラ王が城の奥深くに幽閉された時、

「私は、過去世のどのような罪によって、このような悪い子を生んでしまったのでしょうか」

と悲嘆にくれる箇所があります。

どれほど時代を経ても、わが子が自分の意に添わない時には、誰もが

「こんなはずではなかったのに…」

と、言いようのない寂しさに包まれてしまうようです。

確かに、子どもが親の期待通りに育ってくれると嬉しいものですが、しかしそうではないからといって、

「生まれてこなければよかったに…」

などとは、思うことのないようにしたいものです。

一方、私たちはどのような時に

「生んでくれてありがとう」

と感じるでしょうか。

人生は、自分の思い通りに行くことばかりではありません。

つまずいたり転んだりして行き詰まり、自分が自分であることが情けなくなって、布団をかぶって

「もう死んでしまいたい!」

と叫んだり、涙に枕を濡らす夜もあったりします。

あるいは、

「何でもっと賢く…」とか、

「容姿端麗に生んでくれなかったのか…」

と、親に愚痴ったり、親を呪ったりすることさえあったりもします。

もし、生まれる前にいろんな選択肢があって、

「男女どちらに生まれますか?」

「生まれる国や地域はどこが良いですか?」

「成人した時の身長や体重は?」

「得意分野は文系・理系、体育系・芸術系どのタイプにしますか?」

等といったアンケートがあればともかく、気がつけば既に誰もが

「私」

だったのです。

しかも、私たちの生きている事実は、一回限りで繰り返すことが許されず、誰に代わってもらうことも出来ず、どれほど永遠を願っても限りがあり、その人生の終わりはいつ私に訪れるか分かりません。

誰もが、このような四つの限定の上を生きているのです。

そうしますと、私たちが生きていく中で、

「生きる」

と本当に自分で言い切れるような積極性を持ち、あるいは充実感を持ち、そして一年を振り返って、あるいは一日を振り返って、

「ああ本当に生きた」

と自分のいのちを生活の中で実感するような感覚を持つことが出来なければ、なかなか自分が生まれたことを喜ぶのは難しいのではないでしょうか。

思えば、私たちの一生は、事実は死に向かっての人生にほかなりません。

しかしながら、その内実は

「生まれる」

という事実を一刻一刻と生きて行く生き方があります。

それを

「往生」

といいます。

「往」は往く

「生」は生まれる、

つまり毎日「往き生まれ」

て行くのです。

まさに、いのちが終わるその瞬間まで生まれ続けていくのです。

それは、悲しみにあえば、悲しみを通して、悲しまなかった時の自分ではなくて、悲しむ自分に新しく生まれるのであり、辛いことがあれば、辛いときがなかった時の自分ではなくて、辛いことを引き受けて行くような新しい自分に生まれるのです。

そして、苦しみや悲しみや、いろんな経験の中の煩いや、時には死にたいような思いや、いろんな経験のすべてを新しい自分に生まれる素材にしながら、いのちが終わる時まで生まれ続けていって、いのちの終わる時が一番新しい自分になって、

「生きてよかった」

と言える自分となって死んで行けるような人生を生きるとき、私たちは心から

「生んでくれてありがとう」

と言えるのではないでしょうか。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(5月中期)

では、和語の聖教はどうでしょうか。

例えば、親鸞聖人のお手紙

「有阿弥陀仏へのご返事」

という一通には、

この身はいまはとしきはまりてさふらへば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせさふらふべし。

という言葉が見られ

「浄土で必ずあなたをお待ち申し上げます」

と、ここでは浄土が場所的存在として捉えられています。

また浄土の荘厳を讃歌している

『浄土和讃』

においては、その第一首に

「弥陀成仏のこのかたはいまに十劫をへたまへり」

と述べられ、

『無量寿経』

の説にしたがって、阿弥陀仏を時間的存在として解しておられるようにも見られます。

けれども、それ以後に展開される讃歌においては、阿弥陀仏自体を

「法身の光輪」

「智慧の光明」

「解脱の光輪」

「光雲無碍如虚空」

「清浄光明」

等と表現され、その実態的な相好を破るとともに、浄土の衆生の全体を

顔容端正たぐひなし精微妙躯非人天虚無之身無極軆平等力を帰命せよ

として、

「虚無之身無極軆」

という、真如の相とされます。

では、浄土の荘厳が、存在論的な相好として述べられる場合はどうでしょうか。

七宝講堂道場樹方便化身の浄土なり十方衆生きはもなし講堂道場礼すべし

阿弥陀仏とその浄土が、場所的実態的存在として捉えられる場合は、やはり

『教行信証』

と同様、明確に

「方便の浄土」

と示しておられます。

そして、さらに時間的存在としての阿弥陀仏の十劫成道に関しても、

弥陀成仏のこのかたはいまに十劫とときたれど塵点久遠劫よりもひさしき仏とみへたもふ

無明の大夜をあはれみて法身の光輪きはもなく無碍光仏としめしてぞ安養界に影現する

久遠実成阿弥陀仏五濁の凡愚をあはれみて釈迦牟尼仏としめしてぞ迦耶城には応現する

と、『無量寿経』に説かれる

「十劫成仏」

の阿弥陀仏の本性を、塵点久遠劫よりもさらに久しい

「久遠実成阿弥陀仏」

と解され、その時間的有限性が完全に除かれています。

加えて親鸞聖人は、和語の聖教では浄土の方向を

「西方」

という場で捉えておられる箇所は、一つも存在しません。

このように見れば、親鸞聖人の浄土観は、和語聖教においても

『教行信証』

の思想と、まったく同一の基盤にあるというべきで、むしろ

『教行信証』

を通して、その理念が確立されていたがゆえに、和語において浄土の本質をより平易な言葉で表現できたのではないかと思われます。

そうだとすると、和語の聖教を通して、逆に難解な

「真仏土巻」

の思想を垣間見ることができるのではないかと思われます。

そこで、和語聖教において、阿弥陀仏と浄土の本質を問題にしておられる次の二箇所に注目し、親鸞聖人における阿弥陀仏とその浄土について考察してみたいと思います。

一、『末燈鈔』第五通

「自然法爾(じねんほうに)」の文

二、『唯信鈔文意』

「極楽無為涅槃界(ごくらくむいねはんがい)」の文