「親鸞聖人の仏身・仏土観」(5月中期)

では、和語の聖教はどうでしょうか。

例えば、親鸞聖人のお手紙

「有阿弥陀仏へのご返事」

という一通には、

この身はいまはとしきはまりてさふらへば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせさふらふべし。

という言葉が見られ

「浄土で必ずあなたをお待ち申し上げます」

と、ここでは浄土が場所的存在として捉えられています。

また浄土の荘厳を讃歌している

『浄土和讃』

においては、その第一首に

「弥陀成仏のこのかたはいまに十劫をへたまへり」

と述べられ、

『無量寿経』

の説にしたがって、阿弥陀仏を時間的存在として解しておられるようにも見られます。

けれども、それ以後に展開される讃歌においては、阿弥陀仏自体を

「法身の光輪」

「智慧の光明」

「解脱の光輪」

「光雲無碍如虚空」

「清浄光明」

等と表現され、その実態的な相好を破るとともに、浄土の衆生の全体を

顔容端正たぐひなし精微妙躯非人天虚無之身無極軆平等力を帰命せよ

として、

「虚無之身無極軆」

という、真如の相とされます。

では、浄土の荘厳が、存在論的な相好として述べられる場合はどうでしょうか。

七宝講堂道場樹方便化身の浄土なり十方衆生きはもなし講堂道場礼すべし

阿弥陀仏とその浄土が、場所的実態的存在として捉えられる場合は、やはり

『教行信証』

と同様、明確に

「方便の浄土」

と示しておられます。

そして、さらに時間的存在としての阿弥陀仏の十劫成道に関しても、

弥陀成仏のこのかたはいまに十劫とときたれど塵点久遠劫よりもひさしき仏とみへたもふ

無明の大夜をあはれみて法身の光輪きはもなく無碍光仏としめしてぞ安養界に影現する

久遠実成阿弥陀仏五濁の凡愚をあはれみて釈迦牟尼仏としめしてぞ迦耶城には応現する

と、『無量寿経』に説かれる

「十劫成仏」

の阿弥陀仏の本性を、塵点久遠劫よりもさらに久しい

「久遠実成阿弥陀仏」

と解され、その時間的有限性が完全に除かれています。

加えて親鸞聖人は、和語の聖教では浄土の方向を

「西方」

という場で捉えておられる箇所は、一つも存在しません。

このように見れば、親鸞聖人の浄土観は、和語聖教においても

『教行信証』

の思想と、まったく同一の基盤にあるというべきで、むしろ

『教行信証』

を通して、その理念が確立されていたがゆえに、和語において浄土の本質をより平易な言葉で表現できたのではないかと思われます。

そうだとすると、和語の聖教を通して、逆に難解な

「真仏土巻」

の思想を垣間見ることができるのではないかと思われます。

そこで、和語聖教において、阿弥陀仏と浄土の本質を問題にしておられる次の二箇所に注目し、親鸞聖人における阿弥陀仏とその浄土について考察してみたいと思います。

一、『末燈鈔』第五通

「自然法爾(じねんほうに)」の文

二、『唯信鈔文意』

「極楽無為涅槃界(ごくらくむいねはんがい)」の文