投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

小説 親鸞・かげろう記 12月(5)

承安四年は、仏法日本にとって、わけて念仏道にとって、忘れがたい春秋であった。

誕生して、まだ、まる二つにならない日野の十八公麿が、十五夜の名月に心のひとみをひらいて、無心のうちに、南無――の六音を称えたということが、いつか隠れもない噂ばなしとして伝えられる前に、洛東の吉水禅房では、期せずして同じ年に、法然上人が、専修念仏の新教義を唱道(とな)えだしていたのである。

後に思うと――法然上人の第一声と、幼い親鸞(しんらん)の第一声とは、ゆくりなくも、生るべき時代に――約束のない約束のもとに――秋(とき)を同じゅうして世に出たともいえる。

浅からぬ因縁といえる。

法然の堂には、毎日、求法の民衆が、草のなびくように、寄って行った。

宮廷からも、お招きがあった。

関白兼実も、聴聞した。

はなはだしい平家の跋扈(ばっこ)と、暴政と、いつそれがくずれても火をふくかもわからない危険な地熱と感じられる一方に、そよと、冷やかな泉声(せんせい)でも流るるように、それは、民衆の不安と渇いた心に、争って、汲まれるのであった。

六条上皇が崩ぜられた。

開眼して安元二年。

吉光の前は、一年おいて、また一人の男の子をもうけた。

――十八公麿の弟、朝麿である。

その朝麿が二歳、十八公麿が四歳となった。

乳人(めのと)にだかれている弟を、

「あさ殿、お目あけ……」

と、もう幼い兄ぶりを示す彼であった。

その兄弟のために召抱(かか)え入れた乳母が、ある時、

「介どの、介どの」

侍従介を、よびたてて、二人して、仏間のふすまの間から、中をのぞき合っていた。

そして、笑いさざめいているので、吉光の前は、自分の居間を出て、

「和子たち、何を見ておりますか?」

と、後ろから訊ねた。

乳母は、

「まあ、ご覧(ろう)じませ、あのよう、十八公麿さまが、小さいお手へ、数珠をかけて、御像を拝んでおいでなされます。

誰も、教えもせぬに、何というしおらしい――」

と眼をほそめに告げるのであった。

「ほんに…」

と、吉光の前の眸にも、思わず微笑がただよう。

子は、母の鏡であった。

黒業も白業も、自分たちのなすことはすぐ映してみせるのである。

彼女は、おそろしい気がした。

「お母さま」

人々の気配に気づくと、十八公麿はふりかえって、数珠をすてて彼女の膝へすがった。

壇のまえに座って、拝んでいた相(すがた)には、無邪無心の光があって、仏の再生でもあるように、何か尊いものに心を打たれたが、そうして、母の膝にからみついて、母の乳に戯れた十八公麿の容子(ようす)は、やはり世間の誰の子とも変わりない子どもであった。

翌年の春のことであったが、一家を挙げて、珠とも慈しんでいるその十八公麿が、ふと、家のうちから見えなくなって、乳母や侍従介や、召使たちは、色を失って、騒ぎまわっていた。

※「跋扈」=勢力をふるうこと。思うままに振る舞うこと。

『生死無常のまま年暮れる』(中期)

濃淡・美醜・寒暑・善悪・黒白・大小・智愚・明暗・緩急・方円・遅速…」

といった言葉があります。

このような表現の仕方は日本語独特のもので、英語など他の言語には見られないそうです。

日本人には

「対立するものを互いに取り込むと」

いう考え方があり、互いが溶け合う微妙な味わいを大切にしているからこそ、このような言葉が生まれたのだと考えられます。

こうした言葉の中で、もっとも意味深い言葉が

「生死(しょうじ)」

です。

和語風に言えば

「生き死に」

ということになりますが、いわゆる

「日本人の法則」

に従えば、生と死をはっきりと切り離すのではなく、生から死へ、死から生への連続的なつながりを考え、生と死との間にはっきりとした断絶を考えない言葉のはずです。

ところが、現代の私たちにおいてあるのは生か死かのどちらかであって、

「生死」

というように生と死をひとつにしてとらえるという理解の仕方は、既に失われているように思われます

考えてみますと、現在の私たちは生・老・病・死をすべて名詞で理解し表現していることに気付かされます。

しかし、現実には

「生というもの」

がある訳ではなく、

「生きている」

という事実があるのです。

そして

「生きている」

ということは、生きて動いているということであり、動いているということは、常に時々刻々と変化している、仏教でいうところの

「無常」

の中にあるということに他なりません。

「老」

ということについても、今日では

「老後」

という言葉が用いられています。

「老後」

という言葉は『広辞苑』によれば、

「年老いて後。年とってのち」

と定義されていますが、江戸時代には

「老後」

ではなく

「老入(おいれ)」

という和語を使っていたと言われます。

「老後」

というと、

「年老いて後」

ということで、少なからず後ろ向きの印象がありますが、

「老入」

というと前向きの姿勢が感じられますし、人間としてのひとつの歩みとして、

「老」

ということがとらえられているようにも思われます。

また

「死」

ということについても、

「死」

という名詞で表現してしまうと、本の中の活字のように静的なものになり、まるで

「死」

というラベルの下に整然と納められてしまっているような感じがします。

けれども、

「生きている」

ということが運動であれば、

「死」

もまた名詞ではなく、

「生きる」

ことの自然な帰結として

「死ぬ」

という、動きを表す言葉が適切であるように思われます。

にもかかわらず、私たちの場合、やはりあくまでも

「生」

の面においてのみ自分というものを考えてしまっています。

したがって、死は私の人生を奪い去り、私を無にしてしまうものとして実感されています。

そのとき、死は私にとって全く見通しのきかない、暗黒の闇として受け止められています。

そして、ことあるごとに、その闇から私を脅かす不安が込み上げてきて、私を包み込んでしまうかのように感じられます。

いわば、私を呑み込んでしまう暗黒の世界として、死は私の足元に横たわっているのです。

このような生き方においては、死は生を呑み込んでしまうものであり、生は死を恐れる生として、あいまいで不確かなものとして生きられているものでしかあり得ません。

そこでは、

「生死」

は同じ私のいのちの事実であるにもかかわらず、全く繋がりを断ち切られ、それぞれ対立するものとしてのみ感じ取られることになります。

そのような私たちの生死の在り方を、仏教では

「分段生死(生と死が分段されている生死)」

と言い表しています。

お釈迦さまは、

「死の自覚」

を徹底されることによって、真に愛すべき生を見出し、それをひろく説き、確かな道として成就してくださいました。

にもかかわらず、私たちの現実は、死を忌み嫌い、眼を背けることによって、まるで自分だけは死なない者であるかのように、今を曖昧なままに生きています。

もちろん、頭では、自分もいつか必ず死ぬということをおぼろげながら知ってはいるのです。

それでもなお、人間一般の話としてしか意識していないこともまた事実です。

そのため私たちは生にとらわれ、死を恐れ、そこに常にいろいろな不安を持ち、迷いを重ね、様々な言葉に惑わされています。

そして、お札を受けたり、日の吉凶、方角の善し悪しを気にしながら生きています。

そういう迷いの根っこにあるものは何かというと、生死にとらわれる心なのです。

仏教でいう

「生死を離れる」

ということは、生と死を二つに見分けて、生に執着し死を恐れるという心を離れるということです。

今年も残り少なくなりましたが、まさに

「生死無常のままに年暮れ」

て行こうとしています。

今、私が出会っているお念仏の教えとは

この生活の中で、どれだけ行き詰まりを体験しても、その全てを受け止めながら生きて行ける道です。

それは、

「死んでも死に切れない」

のではなく

「今のままで死に切れる」

人生を生み出して行く教えだということです。

意義のある人生を深く生きる、そういう生き方をしたいものです。

自宅から仕事場までは短い距離なのですが

自宅から仕事場までは短い距離なのですが、早朝仕事に向かう途中、時折数名の人と歩道ですれ違うことがあります。

犬を散歩させている人。

学校に向かう小学生…。

いずれも見知らぬ人ばかりです。

これまで、まだ、私から積極的に…ということはないのですが、しばしばすれ違いざまに

「おはようございます」

と挨拶をされます。

もちろん、私もすぐに

「おはようございます」

と返します。

見知らぬ者同士とはいえ、黙ってすれ違うのと違い、一声挨拶を交わし合っただけで、何とも清々しい気持ちになります。

この

「あいさつ」

は、漢字では

「挨拶」

と書きます。

「挨」も「拶」も

常用漢字には含まれていないので、普通は仮名で書かれますが、日常的な言葉なので、漢字では書けなくても読める人は多いようです。

ところで、この

「挨拶」

という言葉ですが、

「挨」は

「開く、つきすすむ、押し進む、近付く」、

「拶」は

「責める、迫る、押しつける、切り込む」

という意味で、両方共に

「押す」

という意味があり、もとは

「士庶挨拶す」

というと、人々が身分の隔てなく押し合いへし合いすることでした。

多くの人で賑わうパレードを見ようと集まる群衆を考えればよいのですが、とても今のような譲り合いの精神を示す言葉とは言えませんでした。

言葉の意味の変化は、禅僧の間でこの言葉が仏教の教理をめぐって押し問答する意味に使われたことから始まったようです。

禅宗では、門下の弟子僧の悟りの深さを試すための問答のことを

「一挨一拶」

といいます。

問答は

「複数で押し合う」

という意味なので、それを日常生活にあてはめて、安否や寒暖の言葉を取り交わすなど、お互いの儀礼を表すようになり、後に略されて

「挨拶」

となり、お辞儀や返礼のことを

「挨拶」

というようになりました。

江戸時代には、

「言葉を親しく交わす仲」

という意味にも転じ、

「あいさつ切る」

といえば絶交のことであったそうです。

さて、改めて

「挨拶」

という文字の個々の意味を確かめてみますと、

「自分を開き、人に近付き、人に迫る」

という意味から、常に他人と一定の距離を保っている人間同士が、

「互いに心を通わせ合う」

という意味を見出すことが出来るように思われます。

子ども達に

「知らない人から声をかけられも、ついていっては行けません」

と注意することがありますが、悪事を企んでいるような人は、

「人の眼を真っ直ぐに見ることが出来ない」

とか

「きちんとした挨拶が出来ない」

などと言われます。

他に対して、心を閉ざしているために、無意識の内にそうなってしまうのでしょうか。

もしそうであるとするなら、少なくとも

「積極的に爽やかな挨拶の出来る人には、人をだますような人はいないかもしれない…」

そんなことが思われます。

たとえ見知らぬ者同士であっても、短い言葉を交わすことにより、一瞬にして

「互いに心を通わせ合う」

ことが出来ます。

その効用を踏まえて

「朝の挨拶」

は、職場で、学校で、そしていろいろなところで推奨されています。

何かと暗い話題の多い昨今ですが、その輪が広まって行けば、少しは世の中が明るくなるかもしれませんね。

「唯除」の誓い

そこで『信巻』の結びが、真の仏弟子になるのです。

そうだとしますと、普通の宗教であれば、今、真の仏弟子を語っているのですから、その真の仏弟子こそ本願の救いを聞いた親鸞聖人その人になると言わねばなりません。

したがって、真の仏弟子の結びは

「慶ばしい哉」

になるはずなのです。

『信巻』は、獲信の構造を説いて、それを明らかにして真の仏弟子とは何かを語っています。

しかも、それを語っているのは親鸞聖人自身なのですから、当然『信巻』の結びは

「慶ばしい哉」、つまり自分はこのように信心をいただいたと、その信を喜ばれるはずです。

ところが、実際は

「慶ばしい哉」

ではなく、

「悲しい哉」

という悲痛な叫びがここに示されるのです。

まことに知んぬ、悲しき哉愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべし

という言葉で、真仏弟子釈は結ばれます。

これは、いったい何を意味しているのでしょうか。

ここで、第十八願の救いとは何かが根本的に問い直されることになります。

阿弥陀仏は、いったい誰を救おうとしておられるのでしょうか。

本願に

「十方の衆生」

と誓われていますから、阿弥陀仏は一切の衆生を救われるのです。

この一切の衆生の中には、外道ももちろん含まれています。

当然のことながら聖道の行者、第十九願・第二十願の念仏者、そして第十八願の獲信者、これらすべての人々が救われるのです。

第十八願の念仏者はもちろん、既に正定聚の位に住しているのですから救われます。

外道は、未だ仏法を聞いていない者です。

その外道もやがて必ず仏法を聞くようになるから救われのです。

聖道の行者もいつかは第十九願に転入し、十九願から二十願に転入、そして必ず第十八願に至ることになりますから、いかなるものも全て阿弥陀仏の本願に摂取される。

これが第十八願の内容です。

ただし、ただ一つだけ例外があります。

その例外が

「唯除」

です。

ここで、ただその者だけは除くと本願に誓われているのです。

では、誰が除かれるのかというと

「五逆罪を犯した者と、正法を誹謗した者を除く」

というのです。

結局、唯一除かれるのは、正法を誹謗する者になるのですが、この正法を誹謗するというのは、外道を指しているのではありません。

外道は未だ仏法の真理を知っていないため、訳も分からず罵っているだけですから、これは真の意味で正法を誹謗したことにはなりません。

いつか分かるはずですから。

では、真に正法を誹謗している者は誰かというと、正法の内容が完全に明らかになったにも関わらず、しかもその正法が受け入れられず、その教を拒絶する者こそが、まさに正法を誹謗する者になるのです。

そして、それが今の親鸞聖人の姿に重なるのです。

真の仏弟子の姿を知ることが出来たということは、阿弥陀仏の本願の内実の全てが明らかに分かったということです。

阿弥陀仏の大悲、名号の功徳、人はいかにして救われるか。

このすべてがこの者に明らかになる。

つまり、全部が分かるのです。

そうであれば、当然のこととして、阿弥陀仏の法を喜び、この世の虚仮不実性を厭い捨てなければなりません。

だからこそ、念仏の教えを聞き、喜んで真証の証に近づくのが真の仏弟子です。

ところが、親鸞聖人はそうではなかったのです。

「であい」(中旬)得度習礼はとても楽しかったです

仏教との出会いについて考えると、一般のご家庭の場合、最初に仏教と関わるご縁はお葬式だという方が多いのではないでしょうか。

ご両親が亡くなり、50代、60代になって、初めてお寺との付き合いが出てくるようです。

この前お葬式があって、中陰(四十九日)のお参りに言った時のことです。

家族の方から、自宅にお坊さんが来たのは46年ぶりだと聞かされました。

お母さんが亡くなったことをご縁にして、お家の方とお寺との出会いができた訳です。

その後、秋彼岸のときご自宅にお邪魔させていただいたのをきっかけに、お家を行き来するようになり、今もお付き合いが続いています。

では私の場合、仏教との出会いはどうだったのかと言いますと、結婚して長男と次男を生んでしばらくしたある時のことでした。

婦人会の方から

「ちょっと太ったね」

と言われたんです。

実際太っていた時期がありましたが、やはりそういうことを言われるとショックで悲しかったです。

それで何かしないといけないと思っていたとき、目の前に本堂と阿弥陀さまがあって、そこから仏教の勉強を始めるようになったんです。

そして、長男が3歳半、次男が1歳3カ月のとき、僧侶の資格を得ることを決めて、そのための研修

「得度習礼」

に行きました。

得度習礼では、勉強をするのも、お風呂に行くのも自分1人の分だけ準備すればよかったですし、食事も全部作ってもらえましたから、とても楽しかったです。

子育てより簡単でした。

得度が終って家に帰ったときには、私の中で生きがいというか、やることが変わっていました。

とにかく自分が明るくなったように思います。

正念寺では女性僧侶は珍しくありませんでしたし、外国人の僧侶というのも門徒さんに受け入れてもらえました。

門徒さんの家に行くうちにだんだん理解も深まりました。

そして、そこに若い人がいたら、直接声をかけてお寺に呼び込むようにしています。

さて、悲しみや悩み、そういうストレスがたまったとき、人は飲んだり遊んだり、いろんな方法で発散させます。

私の場合は食べることでした。

だから、その悩みや苦しみ、悲しみなどが自分の体に脂肪として出てしまったんですね。

その脂肪のことでいいますと、人間誰でも脂肪がついています。

体脂肪率0%の人はいません。

では、その脂肪には何の意味があるのでしょうか。

例えば、私たちが船に乗っていたときに海に落ちたとします。

それで、もし泳げないとしたらパニックになるかもしれません。

でも、自分で泳ごうとしなくても、落ち着いてそのままにしておけば、まるで見えない力がはたらくように自然と浮かんできます。

しかも、脂肪がついている人ほど浮かびやすいんです。

脂肪は煩悩のようなものです。

脂肪と同じように、煩悩が全くない人はいません。

煩悩が盛んだからこそ、強くはたらいてくださる阿弥陀さまの力というのは、まさに脂肪が多い人ほど浮かびやすくなる見えない浮力のようなものだと言えます。

小説 親鸞・乱国篇 12月(4)

「あぶない」

と、有範は、彼女が起つまえに立って、十八公麿を抱きとってきた。

そして、自分の膝へのせて、

「近ごろは、もう、眼が離せぬわい」

と、わらった。

宗業や、範綱は、こもごもに、十八公麿を、あやしながら、

「今のうちに眼の離せぬのはまだよいが、やがて、遮那王のように成人してからが、子を持つ親は一苦労じゃ」

「いや、あの冠者のようにはなるまい、なぜならば、この子は、おしじゃ。

――ものいえば罪科(とが)になるおしの世に、おしと生まれてくれたのは、これも、われら夫婦が信心のおかげであろう」

有範は、膝の子を、上からのぞいて、そういった。

十八公麿は、仲秋の月よりも澄んだひとみをして、じいっと、まるい月を見つめていた。

(この子は、将来、どうなるであろう?)と、母である者も、叔父である人々も、今、鞍馬の冠者のうわさが出たところだけに、ひとしく、同じことを、考えていたらしくあった。

誰もが、十八公麿のその無心なひとみを、無心になって、見合っていた。

十八公麿は、ふたつの小さい掌(て)を、ぱちとあわせて、笑くぼをうかべた。

子どもの掌は、菩薩の御手のように丸ッこいものである。

人々は、思わずにこと微笑をつりこまれた。

すると――

「な、む、あ、み、だ仏」

誰か、いった。

低音で、聞きとれなかったのであるが、すぐ次に、かた言で、はっきりと、

「――南無阿弥陀仏」

と、つづいて称えた。

十八公麿を膝にのせていた父の有範が、その時、

「あっ?」

愕然(がくぜん)として、

「十八公麿が、ものをいたぞ。

十八公麿が、ものをいうた!」

と、絶叫した。

吉光の前も、さけんだ。

「十八公麿じゃ。

ほんに、今いうたのは、十八公麿じゃ」

うれしさに狂いそうな表情をして、宗業に告げ、範綱に告げた。

「?……」

だが、そのふたりは、茫然と自失していた。

なぜならば、今の無心に出た十八公麿の声は、ただの嬰児(あかご)の初声(うぶごえ)ではない。

あきらかに六字の名号を称えたのである。

眼(ま)のあたりの奇蹟にうたれて、慄然(りつぜん)と、体がしびれてしまったかのように、沈黙しているのであった。

「ふしぎだ……」

「そも、何の菩薩の御化身か」

と、ふたりは、後になってまで、解けないことのように首ばかりかたげていたが、有範は、それはなんらの奇(き)瑞(ずい)でもふしぎでもないといった。

「真如を映すものは、真如である。

――妻のまごころは、胎養(たいよう)のうちに、十八公麿の心をつちかっていた。

また、生れては、この家の和楽や、この家にあふるる法(のり)の感謝に、いつとなく、幼いたましいまでが、溶和されていたのは当然なこと。

なんの奇蹟であろうぞ」

そう説明したが、ありがたさに彼も、彼の妻も、掌をあわせて、真如の大空に、

「南無――」

と、思わず大きく称えて、泣きぬれた。

※「溶和」=金属をとかしてまぜること。金属がとけてまざること。物事がうまく和すること。うちとけること。