投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

小説 親鸞・乱国篇 12月(3)

 ともあれ今の吉光の前自身なり、有範の家庭というものは、謙譲にして清楚な、足るを知って不平を思わない生活を持して、ひたすら、精神(こころ)の位置を、信仰と、そして、夫婦愛と、子の愛育とに置いて、いわゆる世間の名聞利慾からは遠く離れて住み澄ましていたのであった。

 で――朝にも夕べにも、この館の持仏堂には、一刻(いっとき)のあいだ、有範夫婦のたのしげな念仏の称名がもれる。

 また、それに慣って、若い郎党の侍従介も、顔をあらい、口を漱(そそ)ぐと、太陽を礼拝して、

 「…………」

 黙然と念仏する。

 下婢(かひ)も、そうであった。

 乳母も、そうであった。

 水を汲み、使いに走る童(わっぱ)までがそれを習うようにいたって、この古館は何か、燦然(さんぜん)たる和楽につつまれているかのように、他人からも羨(うらや)ましく見えるのであった。

 事実、六波羅殿の栄耀(えよう)も、小松殿の豪華も、この草間がくれの夫婦の生活にくらべれば、その平和さにおいて、幸福さにおいて、遥かに、およばなかったに違いない。

 雁(かり)がわたる――秋は深み行く。

 仲秋の夜だった。

 「兄上、ちとばかり、酒瓶に美酒(うまざけ)さげて参りました」

 宗業が訪れた。

 やがて、範綱も見える。

 十五夜ではあり、こう三名の兄弟がそろうと、ぜひとも、一献なければなるまい。

 吉光の前は、高杯(たかつき)や、膳のものを用意させて、自分も十八公麿を抱いて、円かな月見の席につらなっている。

 わざと燭はとも燈(ひ)さずにある。

 すすきの穂の影が、縁や、そこここにうごいている。

 廂(ひさし)から射し入る月は燈火(ともしび)よりも遥かに明るかった。

 杯のめぐるままに、人々の顔には微醺(びくん)がただよう。

 ――詩の話、和歌(うた)の朗詠、興に入って尽きないのである。

と、思い出したように、

「そうそう」

吉光の前へ向かって、宗業がいった。

「六波羅の探題から、なんぞ、お許(もと)様(さま)へ、やかましい詮議だてはありませんでしたか」

「いいえ……」

吉光の前は、顔を横に振って、

「べつに、六波羅役人から、さようなことは申して参りませんが?……何ぞそのような噂でもあるのでございまするか」

「いや何、私の取越し苦労です。

――というわけは、お従弟の鞍馬の遮那王どの、とうとう、山を下りて、関東へと、身をかくしてしまわれたということです」

「えっ……遮那王殿が」

「油断をしていたため、だしぬかれたと、平家の人たちは、地団駄をふんでおります。

そうでしょう、謀叛(むほん)気(ぎ)がなければ逃げるはずはありません。

忽然と、あの稚子が、姿をかくしたのは、まだ、少年ではありますが、明らかに源家の挑戦と見られる」

「でも、まだ十六歳の小冠者(こかんじゃ)が、どうして、逃げおおせましょう。

……傷ましいことでございます」

彼女は、ふと、月にかかる雲を見た。

ひそかに心のうちでいのっていた従弟の失踪に、また幾人(いくたり)の血につながる者たちが哭(な)くのではないかと戦慄した。

そして、気がつくと、自分の膝に戯れていた十八公麿が、いつのまにか、月の光の中を、他愛なく這いまわって、縁へ出ていた。

小説 親鸞・乱国篇 12月(2)

ここには、諸悪の魔も、ひそむ蔭がない。

明るさで、いっぱいだ。

「どれ、私に少し」

宗業が、抱きとると、

「わしにも、抱かせてみい」

眠っている十八公麿を、手移しに、膝へ取って、

「重うなったの」

父の有範は、

「そうじゃろう、凡(なみ)の子よりは、ずんと健やかじゃ」

と、自慢気である。

するとまた、吉光の前は、

「もう、何か、ものをいうてもよいころではございませぬか」

案じ顔にいった。

「ははは、今も兄上と、途(みち)途(みち)話したことですが、まだまだ」

「まだでしょうか」

「ご心配はない」

「でも、かた言ぐらいは」

「泣けば、よいのです。

泣くことは、泣くでしょう」

「時々、耳のひしげるような大声で、泣きまする」

「それでいい」

有範はべつに気にしてはいなかった。

何よりも、膝にのせると、ずっと重いものを感じるこの子の健康さに信頼ができる。

親ごころに、おしかと案じればおしのように思えるほどきちりと結んでいる唇は、なかなかあかなかったけれど、眸は、つぶらで、よく澄んで、青空のような白眼のうちに耀(かがや)きをもって、この世への意志をみひらきかけている、そして、眠る時は、ふかぶかと、濃い睫毛(まつげ)をふせているのだった。

「大丈夫じゃ」

父みずからが、こう、折紙をつけていた。

けれど――やがて、翌年になった。

まる一年の誕生日がくる。

かぞえ年では、二歳になったのだ。

夏もすぎ、秋にもなった。

ところが、それにもかかわらず、十八公麿はまだ、ものらしい言を唇からもらしたことがない。

乳母は、ようやく不安らしい眉をひそめて、侍従介へ、

「和子さまは、やはり、おしでいらっしゃるかもしれません」

そっと、洩らしたというし、父の有範も、

「よいわ、五体さえ、そろうていれば」

と、かなしい諦めをもちかけて、妻に気を落とさせまいとした。

誰ともなく、出入りする雑人のあいだにも、

「日野のお館に生まれ嬰児(やや)は、おしじゃそうな」

と、噂された。

母性の人には、それが、冷たく聞こえた。

彼女もまた、そう信じて、

「なんの因果」

と、悲しみ沈んだが、子にない不幸をなげいて、如意輪観世音に、

(どうぞ、夫婦に子を)と、祈願をこめたことを忘れて、授かった珠に、わずかな、瑕(きず)があったからというて、不平をいうのは慾(よく)のふかさというものであると思った。

ことには、自分の血液というものも考えだされた。

源家の義親や、従兄の義朝が殺した人間の数だけでも、千塔万塔を建ててもおよばぬくらいな罪業であろう。

その血統(ちすじ)の末に、ひとりのおしの子が産まれるぐらいは、諸行応報のさばきから遁(のが)れ得ない人間の子としては、むしろ慈悲のお酬(むく)いと、有難く思っていいのではないか。

彼女は、そう考え直した。

だが、母性としての悲しみは、依然として、悲しみであり、世間へも良人(おっと)へも、いいしれない追(ひ)け目を感じて、その憂いは拭うことができなかった。

『生死無常のまま年暮れる』(前期)

先日、あるご門徒宅にお参りさせていただいた時の話です。

奥様を亡くされ、初七日のお参りでした。

近所でも評判の働き者の方で、今年も稲刈り、稲こぎなどに精を出されていたのですが、少し体調を崩され入院して間もなくのお別れでありました。

おつとめが終わり、お茶をいただいておりますと、車いすに座られたご主人が

「体が不自由な自分の分まで、嫁は仕事に励んでおりました。

私が先とばかり思っていたのに、本当に命は分からんもんですな。」

としみじみ語ってくださいました。

ご主人は、奥様との別離を通し、“いのち”に向き合われたのでありましょう。

いつかは別れていく、限りある“いのち”であると、知識としては分かっていても、なかなか自分のこととして受け止めることができない私です。

私も父親との別離を通して感じたことでありますが、自分にとって縁のある方との別離は、自らにいのちの問題と向き合わせていただくことであります。

御文章(浄土真宗の教えを分かりやすく伝える蓮如上人の手紙)の白骨章に

「我や先、人やさき、今日ともしらず、明日ともしらず…」

とあります。

どなたの人生も、いつ何が起こるか分からない、無常のいのちを生きていることを示されているのです。

無常とは、移りゆく、変わっていくこと。

また、変わりゆくものであるから、今ここにあることの尊さに目覚めていくことであります。

仏教の教えを聞き、いのちを見つめるとき、無常のいのちを生きている私であったと知らされます。

今年も残りわずかとなりましたが、当たり前に毎日が過ぎるのではないと思うとき、今いのちあることに感謝し、この“いのち”をどう生きるべきかと思いをよせることであります。

親鸞聖人は750回忌と聞きました。年回法要はいつまでするのですか?

 昨年は、親鸞聖人750回大遠忌法要があがりました。

 京都の本願寺まで参拝された方も多くおられることでしょう。

 750回忌というと、なんとも気の遠くなるような年数です。

 確かに親鸞聖人が、お亡くなりになったのは1263年1月16日(弘長2年11月28日)、鎌倉時代中期にあたりますので大昔のように現代に生きる私たちには思えます。

 しかし、その間、親鸞聖人のご遺徳が絶えることなく脈々と受継がれ、今日の私たちの元へと届いてきたのです。

 では、私たちの周りの先立ちゆける有縁の方々の年忌法要はどうでしょうか。

 いつまで続ければよいのでしょうか。

 世間一般に、本やインターネットに紹介されるものを眺めておりますと、

 「1年忌、3回忌、7回忌、13回忌、17回忌、23回忌、27回忌、と法要を行い33回忌まで行うのが一般的です。」

 と書かれています。

 確かに、平均寿命が80歳を超えようかという今日、自分の両親の33回忌どころか、祖父母の33回忌を行うことも容易ではありません。

 そのような状況では、33回忌を最後にするという考え方も理にかなっているように思えます。

 しかし、本当にそうでしょうか。

 先の親鸞聖人に話を戻します。

 親鸞聖人を直接ご存じの方というのは、この世に一人もおられません。

 それどころか、同じ時代を生きられた方も当然おられません。

 しかし、750回忌を勤めることができました。

 これは偏に、お念仏の道をお示しくださった親鸞聖人を慕う人々が、時代を超えておられた御蔭です。

 なにより仏縁を喜びお念仏申すことが法要なのです。

 どうですか。

 あったこともない方の法要だからと敬遠される人もおられます。

 しかし、あったこともないその方の御蔭をもって今の私がいるのではないですか。

 もちろんそれは、血脈に限ったことではありません。

 「袖触れ合うも他生の縁」

 私たちも先立ちゆける有縁の方々の50回忌、100回忌、そして750回忌。

 そのご縁が続く限りお念仏申していきたいものですね。

 

先日、知人の結婚式があり沖縄に行って来ました。

先日、知人の結婚式があり沖縄に行って来ました。

2泊3日の日程の中で、1日だけは自由な時間がとれましたので、車を借りて那覇市を中心にドライブをしました。

夕方の那覇の街を車で走っていると、東の空に米軍の軍用機オスプレイが飛んでいました。

私の見た感じでは、プロペラが斜めの方を向いており、那覇市内を北の方角に飛んでおりましたので、おそらく普天間基地に帰るところだったと思います。

報道などによると、オスプレイのプロペラを横から上方向へ、あるいは上から横方向はシフトチェンジする時に事故が起こっているそうでして、沖縄でも一番人口の多い那覇市中心部の上空で、まさにそのシフトチェンジが行われているところでした。

オスプレイを見た夜に、那覇市の小学校に通う小学2年生の甥っ子に会いましたので、

「今日、オスプレイ見たよ」

と、わたしが言うと、その小学2年の甥っ子が

「オスプレイは学校から、しょっちゅう見てるよ。

一度に4機見たこともあるよ。」

と言っていました。

これが現在の沖縄の空の現実です。

そのうち日本本土でも、全国的に運用されるような流れになっています。

さらにわたしが驚いたのは、東の空には米軍のオスプレイが飛んでいましたが、西の空には日本の航空自衛隊の戦闘機が4機飛行訓練をしていました。

わたしがいたのは那覇市の中心部、東の空には米軍のオスプレイ、西の空では日本自衛隊の戦闘機。

「沖縄の空はいったい誰のもの?」

あまりの現実に、空を見ながらそんな気持ちになりました。

日本の総面積の0.6%しかない沖縄に、日本にある米軍基地の74%が集中しています。

それに加えて、日本の自衛隊の基地も数か所あるのですから、その数字だけ見ればなんら不思議な光景ではないのですが、いざその大地に立ってみると、その現実は本土でわたしが想像していたそれとは全く違うものでした。

わたしが沖縄に行った時は、沖縄の女性が米軍の兵士2人に暴行を受けて、1週間程経った時でした。

沖縄の方々はその怒りを

「震えるような怒り」

と、表現されておられました。

その沖縄の方々にとって、とりわけ残念でこころを痛められている事が、沖縄の怒りや悲しみが、同じ日本人である本土の人にとって共感されていない事だそうです。

それどころか、

「現在の尖閣諸島、朝鮮半島との問題を考えると、現状の日本にとって米軍は必要なのだから仕方がない。」

というような事を、同じ日本人であるはずの本土の人から、いたみを知らない、怒りを知らない人からの言葉を聞く事もあるそうです。

沖縄の過剰な基地負担の問題は、沖縄だけの問題ではありません。

同じ社会に生きるわたくしの問題でもあるはずです。

以前わたしは、知らない事はもともと知らなかったんだから仕方がない事だと思っていました。

しかし、知らないでいることが、いや知ろうともしなかった事が、言い換えるならば私が無関心でいる事が、無責任でいる事が沖縄の方々に、さまざまな場所で生きづらさを感じている方々に、あきらめや孤独を、さらなるいたみを強いているのかもしれません。

沖縄の空は、わたしに私自身のあり方を問いかけているようでした。

「教行信証」の行と信

では、仏意釈では何が問題になるのでしょうか。

今度は逆に、それであればなぜ本願に三心が誓われているのかが問題になるのです。

ここで、親鸞聖人は

「仏のお心はよく分からない。

けれども、ひそかに窺ってみると、至心とは真実の心のことである。

私たち衆生には真実の心は何一つ存在していない。

そこで、迷い続けるのみなのであるが、この何一つ真実の心がない衆生をただ一方的に救うために、法蔵菩薩が兆載永劫の修行をなさった時、全くひとかけらの不実も混じらない真実の心を成就された。

不実の衆生を導くためには、無限の真実の心を阿弥陀仏は成就しなければならなかったからである。

信楽とは、阿弥陀仏の覚りのよろこびの心を示すのであるが、そのような覚りの喜びの心など、本来的に衆生にあるはずはない。

そこで阿弥陀仏がその衆生を覚らしめるために、この信楽をも阿弥陀仏の側で成就されたのである。

欲生も同じである。

浄土に生まれるためには、衆生が一心に浄土への往生を願わねばならないのは当然である。

けれども愚かな凡夫には、本当に真実の心で浄土に生まれたいと願う心もありえない。

そこで欲生心もまた、阿弥陀仏の側で成就し、念仏を通して、来たれと呼んで下さっている。

南無阿弥陀仏がそのすがたである。」

と述べておられます。

このように見ますと、至心信楽欲生の三心はすべて、この南無阿弥陀仏に全く重なることになります。

しかし、なぜ念仏の衆生が摂取されるのでしょうか。

それは、阿弥陀仏は名号を通して、衆生を救う心を廻向しておられるからです。

まさしく、弥陀の大悲が名号となって衆生の心に来っているのです。

阿弥陀仏から名号が廻向されるということは、弥陀からの呼び声が届いていることなのですが、単なる声がきているのではなく、ここにまさしく阿弥陀仏の大悲心が来たっているのです。

だからこそ、親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を獲信するその場をおさえて、この行信に帰命せよとおっしゃるのです。

私たちは名号のはたらきを聞き信じるのですが、名号を聞き称えるということは、阿弥陀仏の大悲心が今まさに私の心に満ちていることを信じることになるのです。

さて、ここで私の獲信が問題になります。

親鸞聖人は

「名号と信心」

の関係について

「真実の信心は必ず名号を具す。

名号は必ずしも願力の信心を具せず」

と述べられます。

真実の信心には必ず、すでに名号を具しているとされるのです。

ここは一般的に、信心を得れば必ず名号が称えられると解されているのですが、それは逆であって、信心とは阿弥陀仏の名号が私の心に来っていることを信知することですから、信じるその時には、すでに必ず名号が私の心に入っていなければならないのです。

だからこそ

「真実の信心には必ず名号を具す」

といわれるのです。

ところが、

「名号は必ずしも、願力の信心を具していない」

のです。

なぜかといいますと、獲信していない衆生は、未だ本願の真実に出遇ってはいません。

したがって、その衆生がいかに一生懸命名号を称えたとしても、本当のところ本願の心がわからなければ、その念仏者は未だ本願の心は具していないということになるからです。

獲信の念仏者とは、頂戴した名号を本当に喜ぶことができます。

そこで、この獲信の念仏者を親鸞聖人は、真の仏弟子と呼ばれます。

そして、その真の仏弟子の姿を、親鸞聖人は法然聖人の上に見られたのだと考えられます。

しかも、

「この本当に念仏を喜んでいる、その念仏者は弥勒菩薩と同じだ。

だからこそ、真の仏道を歩むことが出来るのだ」

と、とらえられます。

『信巻』の後半は、流れからすると、三心の真実を聞いて信の一念を得た者は、すでに名号を具している。

名号の真実が明らかになっているから、その名号の真理を真に伝えることができる。

この念仏者こそ、大悲の実践者であり、真の仏弟子である。」

このように真の仏弟子を明らかにしておられるのが『信巻』です。

つまり、『信巻』では獲信の構造が説かれ、真の仏弟子が明らかにされているのです。