投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

小説 親鸞・乱国篇 12月(1)

露と、虫の音ばかりである。

日野の里は、相かわらず、草ぶかい。

藤原有範が子飼いの家来、侍従介は、築地の外の流れが、草に埋って、下水が吐けないので、めずらしく、熊手をもって、掃除をし、落葉焼きをやっていた。

「おや?」

何を見つけたのであろうか、そのうちに、水草のなかへ手を突っこんで、

「オ、これは、いつぞや奥の御方が、鞍馬の遮那王様へ贈るといって、心をこめて、お書き遊ばした写経じゃないかな。

――吉次のやつ、かような所へ捨ておって、鞍馬へは持って行かなんだとみえる」

水びたしになった塗筥(ぬりばこ)や、巻をひろいあげた。

そして、

「憎いやつめ」

腹だたしげに、踏み折れている草の足(あし)痕(あと)を、睨(ね)めつけている。

底へ、範綱、宗業の二人が、連れだって姿をみせた。

昂奮した顔つきで、侍従介が写経のことを訴えると、

「ふむ……、捨てて行ったか」

二人はそれを見て、しばらく考えこんでいた。

けれど、範綱も宗業も、べつだん不快な顔いろは出さなかった。

捨て去る者には捨て去るものの心がまえがあるのであろう、浄土の幸(さち)は人に強(し)うべきものではないし、また、この社会(よのなか)には、浄土をねがうよりも、すすんで地獄の炎をあびようとすら願う者もあるのである。

――たとえば、文覚のように。

二人は、そう考えた。

そして、遮那王の将来(ゆくすえ)を心のうちで占った。

中山堂の丘に、ちらと見えた野狐のような男の影は、ことによると、先ごろの夜、この日野の里を訪れた吉次であったかもしれぬと、それをも、同時に、覚っていた。

「よいわ、どこぞ、人が足をふまぬところへ、そっと、埋めておけ」

「勿体(もったい)ない、畜生じゃ」

侍従介は、腹が癒えないように、まだ罵(ののし)っていた。

「お館はおらるるか」

「はい、おいで遊ばします」

「取次いでくれい」

「どうぞ」

と、熊手を引いて、先に立つ。

わが家も同じようにしている館なので、わざと、式台にはかからずに、網代(あじろ)垣(がき)をめぐって、東の屋(おく)の苑(にわ)にはいると、

「まあ」

ゆくりなく、そこの南縁の陽だまりに、乳のみ児を抱いた吉光の前と、有範の夫婦が、むつまじく、児をあやして、くつろいでいた。

よく、女性の美は初産に高調するというが、吉光御前のこのごろのやつれあがりの面ざしや、姿は、真夏を越えた秋草の花のように、しなやかで、清楚で、常に見なれている二人にも、その?(ろう)やかさが、時に、眩(まば)ゆくさえ見えた。

「おそろいで、ようこそお越し……。

さ、こちらの室へ」

「十八公麿は」

「よう、眠っておりまする」

「どれどれ」

何よりも先にというように、範綱は吉光の前の腕(かいな)のうちをのぞきこむのであった。

珠(たま)が珠を産むとは、これをいうのではあるまいか。

母の麗質をそのままにうけている。

すやすやと小さい鼻腔からやすらかな呼吸をしている。

甘い乳の香と、母性の愛を思わすにおいが、この故郷(ふるさと)からはすでに遠く人生を歩んできた範綱や宗業の心をもやわらげて、何がな、自分たちの生命(いのち)の発生にも、ふかしぎなものを考えさせるのであった。

「であい」(上旬)見た目は違うけど同じ人間なんです

ご講師:吉村ヴィクトリアさん(宮崎県正念寺坊守)

神道の町として有名な宮崎県の高千穂町。

その中にある浄土真宗の正念寺に入った外国人僧侶が私です。

自分でも不思議なご縁だと思います。

私がこのお寺に初めて来たのは19年前、23歳の時でした。

きっかけは、イギリスで大学の友達が卒業後の仕事説明会に行くのに同行したことです。

それで興味を持った文部省のALT(外国語指導助手)の仕事に就き、日本の高千穂に来て、2年目の夏に正念寺のサマースクールに参加したのが最初です。

日本に来た当初は、日本語が不慣れな上、初めての1人暮らしだったのですごく辛かったです。

特に、最初に勤めた教育事務所は大変でした。

何かしたいと思っても

「女だから」

という理由でダメだと言われたんです。

男女平等のイギリスの家庭で育てられたこともあり、そんな理由で仕事を限定されたり、ダメだと言われたのはショックでした。

最初の1年目はその教育事務所で大変な思いをしましたが、2年目で高千穂高校に転勤になり、そこで素敵な出会いがありました。

職員室で隣の席にいた吉村順正という国語の先生。

この人との出会いから始まって、私は仏教・浄土真宗と出会い、結婚して、子どもを授かって僧侶になり、今ではこのように講演会に来ています。

全てが、最初の出会いから始まったんですね。

彼は第一印象がよかったです。

僧侶だからなのかは分かりませんが、彼は外国人だからとか、女だからとかで態度を変えることなく、普通に接してくれました。

日本語も少し話せるようになっていましたから、そういう優しさは身に沁みました。

彼とは7月に出会い、8月にサマースクールに行きました。

好きになったのはその頃です。

私は、手紙で彼にアプローチをかけました。

「よしむらせんせい」

と、平仮名で書いて、彼の机の上に置いておいたんです。

2・3日後に電話がかかってきて、すごくドキドキしたのを覚えています。

それからお付き合いが始まり、2カ月ほど経つ頃には、

「もう結婚するならこの人しかいない」

と思うようになりました。

交際については、地区のお坊さん達は応援してくれたんですが、彼の家族からは特に反対されました。

私が外国人だというのが問題で、生まれ子どもの容姿なども気になったようですね。

私自身も言葉の問題で苦労しましたが、これが日本で私の選んだ道です。

彼と出会って、彼を愛して、辛いこともいっぱいあるけれども、彼がそばにいたから大丈夫でした。

そして、結婚して私たちの出会いから3人の子どものいのちが生まれました。

子ども達は黒髪でしたが、それでも見た目がハーフだと分かりました。

私が町を歩いていると

「外人だ」

と言われることがありますが、

「外国人」

と言われるより冷たい感じがします。

「“外の人”だから出ていけ」

という感じがして嫌なんですね。

それで長男は小学校のとき、周りと違うという理由からいじめられたことがあります。

見た目は違うけど同じ人間です。

赤ちゃんは、日本でも外国でも同じ泣き声で泣きますし、私もみなさんと同じように子育てしたり、同じことで悩んだりします。

だから、今回のお話の中で、顔のつくりが違ったり、日本語が聞き苦しくても、自分と同じ経験がある。

同じ思いなんだなと感じてもらえたら嬉しいですね。

「慚愧(ざんぎ)」

『涅槃経』に、父を殺害した極悪人の阿闍世(アジャセ)が、仏に帰依するまでの経緯が述べられています。

王位を求めて欲望に狂わされた阿闍世が、父王を殺害することになるのですが、殺害して我に返った時、自分のなした非道を後悔し、犯した罪の深さに恐れおののくことになります。

そして、自分は必ず地獄に堕ちるという恐怖が、やがて阿闍世の心を究極まで苦しめ、身体が重い病に罹ってしまいます。

身体的に痛みと心の苦痛が、阿闍世に生きながらの地獄を味わわせます。

そこで阿闍世の家臣たちが、世の名医をつれてきてその病を治そうとします。

名医たちは、阿闍世に罪のないことを証明して恐れる必要のないことを説くのですが、阿闍世の病は全くよくなりません。

そのような時、一人の名医、耆婆(ぎば)が阿闍世のもとに近づき、苦悩する阿闍世に良きことだと述べるのです。

自らの行為の非道さを後悔し、地獄に堕することを恐れて苦悩のどん底でのたうち回る、その姿がなぜ良いことなのでしょうか。

耆婆が阿闍世に重ねて言います。

王は今、慚愧(ざんぎ)の心を抱いた。

その慚愧の心こそ、王が人となった証である。

「王よ、あなたにやっと仏の教えを聞く心が生まれた」

と言い、そのことを良きことと喜び、

「さあ、早く釈尊のもとへ」

と阿闍世に仏教を聞かせる縁を作ったのです。

では、人が人であるかないかを決定付ける

「慚愧」

とはどのような心なのでしょうか。

『涅槃経』では、次のように説明します。

「慚」

とは、自分自身、絶対に罪を作らないという心です。

「愧」

とは、他人にその心を教えて、他人にも絶対罪を作らせない心です。

ところで、この慚愧の心を自ら一心に実践しようとしますと、当然のことながらその不可能性を知ることになります。

そこで、

「慚」

とは、その自分の姿を省みて、自らを深く羞恥する心になります。

これは一見、先の慚愧から後退しているように見えますが、そうではなくて、ここに慙愧の深まりがあります。

なぜなら、この人こそ、自ら深い人徳を備えた人といえるからです。

そして、その人から自然に人格の深さが醸しだされて、その人に出会う人は、その人徳に打たれて、自分の愚かさに恥じらいを感じる。

そのようなはたらきが、

「愧」

だとされるのです。

けれども、もしこのような恥じらいをもつ者のみが人間だとされますと、これはもう天に恥じ、地に恥じるしかありません。

その天に恥じる心が

「慚」

であり、地に恥じる心が

「愧」

です。

親鸞聖人の愚の自覚は、この

「慚愧」

の心だと言えるのではないでしょうか。

宇宙全体の中で、自分こそが極悪人だと見られているのですが、これこそが仏道だといえます。

人々から見れば、これ以上尊敬することができないほどの人徳を身につけ、仏教の造詣らも深かった。

しかもその方が、自分たちと全く同じ立場に立たれ、その自分を恥じらっておられるのです。

阿弥陀仏の本願は、このような悪人こそを救われるのであり、そしてまた、この悪人こそが阿弥陀仏の大悲を必要としています。

仏の恩を知り、師の恩を知った者は、自らの罪悪性に慚愧しつつ、弥陀の大悲に摂取されている安らぎを味わっているのです。

自らのいのちを懸命に生きつつ、仏の恩、師の恩に報いるために、自ら受けた教えの喜びを他に伝えるための人生を歩むことになるのです。

小説 親鸞・乱国篇 唖の世 11月(10)

「そんな所に、何をしておいでなされましたか」附人(つけびと)の寺侍は、叱るように、丘に仰向いていった。

稚子の遮那王は、

「何もしておりはせん」首を振って、

「おまえ達を、探していたんだ」と、あべこべにいう。

下の者は、呆れ顔をして、

「早く、下りておいでなさい」

「行くぞっ」遮那王は、凧のように、両袖をひろげて、丘の上から姿勢をとって、

「ぶつかっても、知らないぞ――」丘のうえから、鞠(まり)をころがすように、駈け下りてきた。

「あっ――」身をよけるまに、一人の寺侍へ、わざとのように、遮那王は、どんと、ぶつかった。

大きな体かせ仰向けざまに転がった。

小さい遮那王は、それを踏んづけて、彼方£、跳びこえた。

「ハハハハ。ハハハハ」手を打って、笑いこける。

「おろかなお人じゃ。

だから、断っておいたのに」

見向きもしないで、もう、すたすた先へ行く。

――足の迅(はや)さ。

寺侍たちは、息をきって、その小さくて颯爽(さっそう)たる姿を折ってゆくのであった。

宗業は、見送って、

「兄上、やはり、鞍馬寺の牛若でございますな」

「ウム」範綱も呆れ顔であった。

「よう、成人したものだ。

……常磐(ときわ)のふところに抱かれて、ほかの幼い和子たちと、六波羅に捕らわれたといううわさに、京の人々が涙をしぼった平治の昔は、つい昨日のようだが」

「義朝殿に似て、なかなか、暴れンぼらしゅうござります」

「附人も、あれでは、手を焼こう」

「いや、手を焼くのは、附人よりも、やがて六波羅の平家衆ではございますまいか。

伊豆には、兄の頼朝が、もうよい年ごろ」

「しっ……」たしなめるように、範綱は顔を振った。

並木のうしろかを、誰か、通ったからである。

「われらの知ったことではない。

歌人(うたよみ)や文書(ふみかき)には、平家の世であろうが、源氏の世であろうが、春にかわりはなし、秋に変りはなし、いつの世にも、楽しもうと思えば楽しめる」

「けれど」宗業は声をひそめて、

「なんとなく、ぶきみな暴風雨(あらし)が、京洛(みやこ)の花を真っ黒に打ちたたきそうな気がしてなりませぬ、――高雄の文覚がさけんだ予言といい、そちこち、源氏の輩(ともがら)が、何やら動きだした気配といい……」

「いうな」と二度も、たしなめて

「おし になれ。

ものいうことは罪科(つみとが)になるぞ」

「文覚もいいました。おし の世だと」

「……そう」と、範綱は、何か別なことを思い出したように、

「おし といえば、有範の和子、十八公麿は、生まれてからもう半歳にもなるのに、ものをいわぬと、吉光の前が、心をいためているが」

「それは、無理です、半歳の乳のみ児では、ものをいうはずがありません」

「でも、意志で、唇ぐらいは、うごかそう」

「ははは、取越し苦労というものですよ。

吉光の前も、日野の兄君も、余りに愛しすぎるから」

小説 親鸞・乱国篇 唖の世 11月(9)

「いやどうも」会釈も、そこそこ、寺侍たちは、彼方へ駈けて行った。

宗業は、見送って、

「兄上、今の侍どもは、鞍馬寺の者と申しましたな」

「そういうた」

「もしや……」小首をかしげていうのである。

「あの者たちが、見失った御曹子と申すのは、遮那王ではありますまいか」

「遮那王とは」

「義朝の遺子(わすれがたみ)――幼名牛若ともうす稚子です」

「ははあ」

「どうも、そんな気がする」血縁はあらそわれない、血が知らせるのである、宗業は足をとめたまましきりと見まわしていた。

 すると、すぐ後ろの、源頼政の碑のある中山堂の丘に、白い尾花を折り敷いて、にこにこ笑っている稚子(ちご)髷(まげ)の顔が、ちらと見えた。

 

「あっ、居る……」兄の袖を引くと、範綱も、見あげていた。

そこは、さっき、文覚護送の檻車が通った時、たくさん、見物がいた所である。

稚子は、背がひくいので、そこへ登って眺めていたものと思われる。

すぐ、彼のそばの尾花の中に、もう一人、誰かが屈(かが)みこんでいた。

旅商人の砂金売り吉次だった。

何かささやいているらしい。

しかし、遮那王は、吉次のほうへは顔を向けないで、いかにもうつろな眸をしているように、真っすぐに、雲を見ていた。

ただ、時々うなずきながら微笑するのである。

「――疑ぐられてはいけませぬ。はやく、お帰りなさいませ」吉次がいう。

遮那王は、首をふる。

「いいよ」

「でも」

「いいというのに」

「まだ、時機が熟しませぬ。――今日のところは、山へお帰りあって」

「わかったよ」

「では」

「いいと申すに。

ふだん、わしを、うるさく見張ってばかりおるゆえ、あの三人に、すこし、窮命させて、探させてやるのじゃ。

あれ見い、阿呆顔をして、焦れておるわ」並木を、四、五町も先へ行って、寺侍たちは、つかれた顔をして、また、こっちへもどってくる。

それを、おかしげに、遮那王の小さい顎がさして笑う。

やがて、

「やっ、あんな所に」見つけたとみえて、寺侍たちは、わらわらと丘の下へ駈けてきた。

そして、

「遮那王さま!」手を振って、呼びたてる。

吉次は、とっさに、

「ではまた」と、一言のこして、野狐のように、中山堂のうしろへ、隠れこんでしまった。

けろりとした顔で、遮那王は立っていた。

なるほど、十五歳にしては小つぶである。

指で突いたように、顔にはふかい笑靨(えくぼ)がある。

歯が細かくて、味噌ッ歯の質(たち)だった。

なつめのように、くるりとしてよく動く眼は、いかにも、利かん気と、情熱と、そして、やはり源家の家系に生まれた精悍(せいかん)な血潮とを示して、それが、稚子であるために、単純化されて、凡(ただ)の者が何気なく見ては、悪戯(いたずら)ッぽい駄々っ子としか見えないであろうほど、無邪気な眸であった。

小説 親鸞・乱国篇 唖の世 11月(8)

 それからまた、

「天に口なし、人をもっていわしむ」文覚は、よけいに声を張って、尾いてくる群衆へ、朗々と歌って聞かせた。

宝財永劫の珠ならず

位冠栄衣も何かせん

民の膏血(あぶらち)に灯をともして

奢りの華ぞあやうけれ

明日にしもあれ一あらし

あらじと誰か知るべきや

「こらッ」竹棒は檻車を撲(なぐ)って、

「歌をやめんと、水をかけるぞっ」

「かけろ」文覚は、動じもしない。

「――俺を捕らえて、伊豆へながすなどとは、野に、虎を放つものだ。あわれや、平家の末路は見えたっ」

「走れ」役人は、牛飼へいって、牛を走らせた。

軌(わだち)が、すさまじい地ひびきを立て、そして、漠々(ばくばく)と、黄いろい土ぼこりを、群衆の上へ舞わせた。

「――この夜に、無限の栄華はない。

いわんや、平家においてをや。

民よ、大衆よ、気を落さずに、世の変わるのを待てっ!」

「わあっ」民衆は、どよめいて、

「変れっ、改革(あらた)まれ」発狂したようにさけんだ。

びし、びし、と鞭におわれて、檻車を曳いてゆくまだらの牛は、尾をふって、狂奔してゆく。

文覚は、遠ざかる人々へ、

「おさらば」群衆も、眼に涙をためて、

「おさらば――」埃で、陽が昏(くら)くなった。

「ああ」と、力なく、草いきれのような嘆息(ためいき)が、そこやここに聞こえる。

そして、人々が見聞きしたうわさを持って町の方へ流れて行くと、その間を、例の六波羅童が、しきりと、小賢しい眼をして、罪を嗅いであるく。

「どこへ、お出たのか」

「こっちでもないらしい」三人の寺侍だった。

いちど、鳥居大路へ、群衆と一緒に、もどって行ったが、また引っかえしてきて、

「これだから困る」

「あの御曹子には、まったく、手を焼いてしまう。

外出(そとで)は、禁物だ」誰をさがしているのか、きょろきょろと、走ってきて、

「あいや。

率(そつ)爾(じ)でござるが――」と、並木の下で、ばったりと会った範綱と宗業の兄弟に、少し息をきって、唐突に、たずねた。

「なんですか」宗業は、足をとめた。

「このあたりで、十四、五歳の御曹子を、お見かけになりませんか」

「さ?」兄を、ふりかえって、

「見ましたか」

「いや」範綱が、かぶりを振ると、三名の寺侍は、彼の方を見て、また、言葉の不足をつぎたした。

「――御曹子と申しても、実は、鞍馬寺の預かり稚子でござるゆえ、ちと、身装(みなり)にも、特徴があるし、体は、年ごろよりは小つぶで、一見、きかないお顔をしているのですが」

「知らぬの」兄弟(ふたり)とも、そう答えた。