「あぶない」
と、有範は、彼女が起つまえに立って、十八公麿を抱きとってきた。
そして、自分の膝へのせて、
「近ごろは、もう、眼が離せぬわい」
と、わらった。
宗業や、範綱は、こもごもに、十八公麿を、あやしながら、
「今のうちに眼の離せぬのはまだよいが、やがて、遮那王のように成人してからが、子を持つ親は一苦労じゃ」
「いや、あの冠者のようにはなるまい、なぜならば、この子は、おしじゃ。
――ものいえば罪科(とが)になるおしの世に、おしと生まれてくれたのは、これも、われら夫婦が信心のおかげであろう」
有範は、膝の子を、上からのぞいて、そういった。
十八公麿は、仲秋の月よりも澄んだひとみをして、じいっと、まるい月を見つめていた。
(この子は、将来、どうなるであろう?)と、母である者も、叔父である人々も、今、鞍馬の冠者のうわさが出たところだけに、ひとしく、同じことを、考えていたらしくあった。
誰もが、十八公麿のその無心なひとみを、無心になって、見合っていた。
十八公麿は、ふたつの小さい掌(て)を、ぱちとあわせて、笑くぼをうかべた。
子どもの掌は、菩薩の御手のように丸ッこいものである。
人々は、思わずにこと微笑をつりこまれた。
すると――
「な、む、あ、み、だ仏」
誰か、いった。
低音で、聞きとれなかったのであるが、すぐ次に、かた言で、はっきりと、
「――南無阿弥陀仏」
と、つづいて称えた。
十八公麿を膝にのせていた父の有範が、その時、
「あっ?」
愕然(がくぜん)として、
「十八公麿が、ものをいたぞ。
十八公麿が、ものをいうた!」
と、絶叫した。
吉光の前も、さけんだ。
「十八公麿じゃ。
ほんに、今いうたのは、十八公麿じゃ」
うれしさに狂いそうな表情をして、宗業に告げ、範綱に告げた。
「?……」
だが、そのふたりは、茫然と自失していた。
なぜならば、今の無心に出た十八公麿の声は、ただの嬰児(あかご)の初声(うぶごえ)ではない。
あきらかに六字の名号を称えたのである。
眼(ま)のあたりの奇蹟にうたれて、慄然(りつぜん)と、体がしびれてしまったかのように、沈黙しているのであった。
「ふしぎだ……」
「そも、何の菩薩の御化身か」
と、ふたりは、後になってまで、解けないことのように首ばかりかたげていたが、有範は、それはなんらの奇(き)瑞(ずい)でもふしぎでもないといった。
「真如を映すものは、真如である。
――妻のまごころは、胎養(たいよう)のうちに、十八公麿の心をつちかっていた。
また、生れては、この家の和楽や、この家にあふるる法(のり)の感謝に、いつとなく、幼いたましいまでが、溶和されていたのは当然なこと。
なんの奇蹟であろうぞ」
そう説明したが、ありがたさに彼も、彼の妻も、掌をあわせて、真如の大空に、
「南無――」
と、思わず大きく称えて、泣きぬれた。
※「溶和」=金属をとかしてまぜること。金属がとけてまざること。物事がうまく和すること。うちとけること。