投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

もう今年も終わりますね。

もう今年も終わりますね。

早いものです。

一年一年、歳を重ねるにつれて、月日、時間の流れを、だんだん、だんだん早く感じるようになってきました。

時の過ぎることの早いことといったら・・・

あっという間の一年です。

幼稚園、小学校、中学校、高校のころくらいまでは、一年がとっても長く感じました。

春、夏、秋、冬とそれぞれの季節を身体に感じながら、一生懸命笑ったり、泣いたり、怒ったり。

一瞬一瞬を一生懸命に生きていたように感じます。

大人になってからは、朝起きて、職場に出勤をして、夜、帰宅して、就寝。

といったような同じような毎日を何も考えることなく繰り返しています。

子どもの頃過ごしていた時間と『今』過ごしている『時間』には、なんら変わりもないのに、ただなんとなく過ごしているというだけで、こんなにまでも『とき』の過ぎ去ることへの感じ方は変わってくるのですね。

今朝、目が覚めたこと、そして今この文章を書いている時間、1分先、1時間先、今夜、そして明日。

どの時間も決して当たり前ではありません。

誰もが必ずむかえることの出来る時間や明日はないのですよね。

先に

「同じような毎日を繰り返している」

と書きましたが、

私は仕事がら、毎日沢山の方と出遇います。

そしていろんな話しをさせていただきます。

変化のない毎日ではないんですよね。

私が今まで気付いていなかっただけであって、その日1日いちにちが一期一会の尊い出遇いであって、喜びなんですよね。

そして何より、今この瞬間を生かさせていただいているということがとっても大きな有り難い事実(こと)。

「君が生きている今日は、昨日死んだ人が生きたかった明日」

という言葉を耳にしたことがあります。

ただ生きていたら、小さな幸せ、小さな変化に気付けなかったりするものです。

ただ何となくの日暮しはあっという間に過ぎていくように感じます。

はたまた、困難にぶつかった時には、非常にときの流れは長く感じるもの。

「早く終わればいいのに。」

って自分勝手に思っちゃたりしちゃいますよね。

「つらい」

「悲しい」

でも、どんなときであっても、生かされている

「今」

なんですね。

ただ過ぎていく時間ではなくて、あたりまえでない

「今」

を一生懸命に生きていかなければならない。

そうすることによって、日常の風景も変わってくるのではないだろうか。

・・・っと、今更ながら、気付かせていただいた今日このごろでした。

日々、感謝の心を決して忘れることなく今を大切に生きていきたいです。

「唯除」の誓い

本願のすべてを聞いた上で、親鸞聖人は何を選んでおられるのでしょうか。

愛欲と名利を選んでおられます。

真証の証に近づくことに心を向けないで、未だ愛欲を求め、名利の方に魅力を感じているのです。

ここにまさしく正法を誹謗している者の姿があります。

ですから、たとえ一切の者が救われるとしても、ただ一人、親鸞聖人だけは除かれるという事態が起こることになります。

それが、この

「悲しい哉」

という悲痛な叫びになるのです。

では、この

「悲しい哉」

の叫びと、

「唯除」

の誓いはどのように関係し合うことになるのでしょうか。

ここに『信巻』の最も重要な問題が絡んでくることになります。

この疑問を解く鍵が、この後に続く

「逆謗摂取釈」

にあるといえます。

長々と引用される『涅槃経』の引文の中で、この問題が根本的に解決されることになるのです。

最終的に、親鸞聖人は何に気付かれたのでしょうか。

結局人間は、どこまでいっても愚かであって、臨終の一念までその愚かさを消し去ることは出来ないということが分かったのです。

けれども、その迷い苦しむ愚かな人間を救うのが、まさに唯一阿弥陀仏の本願力だけだということもまた同時に分かるのです。

したがって、本願の救いは、愚かさや苦悩が破れた者の救いではなくなります。

むしろ自分の根源的な愚悪性が明らかになり、その愚かさに慚愧の心、無限の恥じらいをいただくところに、初めてその者こそを救うという、本願の尊い呼び声が真に聞こえてくるのだといえます。

ここに

「唯除」

を誓われた弥陀の本願の重さが知られます。

私たちの姿は、愚かな自分の側で善悪の判断の基準を作ります。

そして、救われるとか救われないといったことを計らうのですが、この愚悪なる衆生に対して

「唯除」

の誓いは、その罪の深さを知らしめ、はからいを捨てて本願の声を聞けという仏の最後の叫びになるのです。

罪の深さを示して、汝こそを救うというのが、この

「唯除」

の言葉になるのです。

だからこそ、親鸞聖人は、汝のみを除くという言葉を通して、

「親鸞一人がための弥陀の本願」

に、真に出遇うことになるのです。

これが三一問答によって開かれた、一心の華文の後に残った

「しばらく」

の疑問です。

一心の真理が分かっても、愚かさが残る。

そのどうしようもない自分への疑問。

「しばらく」

の疑問とは、完全に救われていながら、しかもなおその教えに歓喜できない自分に対する

「もどかしさ」

だと言えますが、結局、よろこび得ないのが凡夫だという、その凡夫の本質に親鸞聖人は目を向けられるのです。

この点は、喜び得ない凡夫をそのまま救うという、『歎異抄』の第九条の思想と重なることになるのですが、この救いに、実は浄土真宗の教えの根本が語られていると見ることが出来ます。

では、獲信の念仏者の仏道とは何でしょうか。

それは、凡夫の真の姿を知り、念仏とは何かを説く。

そこに大悲を実践する念仏者の道があるといえるように思われます。

「であい」(下旬)今にも死にそうな枯れ葉が美しい

私にとって、お寺のこと、仏教は何なのかと言えば、それは酸素のようなものだと言えます。

例えば飛行機に乗っていて、何か異常があったら酸素マスクがおりてきますよね。

その酸素マスクは、まず自分が先につけて、その後に小さい子どもや周りの人につけてあげるのが安全説明のマニュアルです。

まず自分が酸素を吸い込んで元気になって、そして周りの人にも同じように元気になる酸素を吸わせるようにしていく訳ですね。

日常では、育児や両親の世話、仕事など、忙しさで自分を置き去りにしてしまうことが多いです。

だから、まず自分が仏さまの教えを聞いて、心の元気を頂いて、その喜びや安らいだ心持ちを周りの人にも伝えていく。

お寺は、私にとって酸素のようなライフラインになっていたんです。

日常で忙しくしながらも、私は息子2人を生んでから僧侶になり、そして娘も出産しました。

しかし、そんな折り、夫が45歳でガンにかかってしまいました。

長男は小学1年生、次男は4歳、長女は生後2カ月で、これから思っていた時期でしたからすごくショックでした。

当時僧侶になったばかりの私は、赤ちゃんの世話をしつつ、入院する夫の代わりに法事に行きました。

その後「教師」という僧侶の資格をとったりしましたが、何かあったらと不安で、全然楽しくありませんでした。

今では夫も快復しましたが、そのことがあって「死ぬ」ということを怖いと思うようになりました。

私たちは、死ぬことや年を取ること、そういう変化を恐れます。

でも、大自然に目を向ければ、高千穂は秋になると紅葉がきれいで、多くの観光客を魅了しています。

紅葉の何がそんなに魅力的なのかというと、それは赤や黄色、茶色に染まった枯れ葉です。

今にも死にそうな、落ちる寸前の枯れ葉が美しく感じられるんですね。

大自然では、春夏秋冬は全部美しいんです。

仏教では、人生には生老病死の苦しみがあり、老いも病も避けられないし、家庭も社会も変化することは止められないと説かれています。

しかし、変化するから悲しい心の傷も癒されるし、大自然の美しさのような

「今」の尊さにも気付かせてもらえるのではないでしょうか。

だから、老いないように、死なないようにと、止められない変化を無理やり止めようとするんじゃなくて、目に見えない阿弥陀さまのおはたらきにおまかせして、忙しい日常の中から

「今」の尊さを頂くのがいいんじゃないかなと思います。

小説 親鸞・かげろう記 12月(7)

まるい丘と丘が重なりあっている。

丘の赤松の蔭からは、川原焼きの竃(かま)の煙が、まっすぐに立ち昇っていた。

それを見ても、風のないのがわかる。

蝶の群れが、逃げて着た。

キキキ、キッ、と軌(わだち)の音がどこからかしてくる。

見ると、日永(ひなが)の遊山に飽いたような牛が、一台の輦(くるま)を曳いてのろのろと日野の里を横に過ぎて行く。

「七郎っ。

――七郎よっ」

輦の中で、少年の声がした。

武家の息子であろう、ばらっと、乱暴に、簾(れん)をあげて、首を外へ出した。

「どこへ行った、七郎は?」

牛飼は、足をとめて、後ろの道をふり向いた。

郎党ていの青侍が三名、何かふざけながら、遠く遅れて歩いてくるのが見える。

「ちッ」

と、輦の上の少年は、大人びた舌打ちをした。

赤い頬と、悪戯ッぽい眼をもって、

「――わしを、子どもと思うて、供の侍どもまで、馬鹿にしおる」

両方の手を、口のはたら翳(かざ)して、おうーいっと、大声で呼んだ。

その声に、初めて、気がついたように、郎党たちは、輦のそばへ駈けてきた。

「馬鹿っ、馬鹿っ、何をしてじゃっ」

少年は、頭から怒りつけて、それからいった。

「あれ、あの丘の裾(すそ)に、うずくまっている小童(こわっぱ)があろう。

――怪しげなことしておるぞ。

何をしてるのか、すぐ見てこい」

「え?……どこでございますか」

七郎とよばれた郎党は、少年の指さす先をきょろきょろ見まわした。

「見えぬのか、眼がないのか。

呆痴(うつけ)た奴のう。

……あそこの、梅か、杏か、白い花のさいておる樹の下に」

「わかりました」

「見えたか」

「なるほど、童(わらべ)がおります」

「さっきから、ああやって、じっと、うずくまったままだぞ。

けったいなやつ。

何しているのか、見とどけてこい」

「はいっ」

七郎は、駈けて行った。

白い花は、梅だった。

後ろからそっと近づいて見ると、まだ、四、五歳ぐらいな童子が、梅の老樹の下に坐って余念なく、土いじりをしているのである。

(やっ?)七郎は、眼をみはった。

童子の前には、童子の手で作られた三体の仏像ができている。

まぎれもない弥陀如来のすがただ。

もちろん、精巧ではないが、童心即仏心である。

どんな名匠の技術でも生むことのできないものがこもっている。

それだけなら七郎はまだそう驚きはしなかったろう。

――だが、やがて、童子は、土にまみれた掌をあわせて、何か念誦(ねんず)しはじめた。

その作法なり、態度なりが、いかにも自然で、そして気だかかった。

ひら、ひら――と童子のうない髪にちりかかる梅の白さが、何か、燦々(さんさん)と光りものでも降るように七郎の眸には見えた。

(凡人(ただびと)の子ではない)こう感じたので、彼は、気づかれぬうちにと、足をめぐらして、腕白な主人の待ちかまえている輦のほうへ、いそいで、引っ返してきた。

「やい、どうあったぞ?」

まるッこい眼をかがやかせて、少年は、輦(くるま)の上から、片足をぶら下げて、すぐ訊いた。

「諸行無常」というのは、どのようなことなのですか?

「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」

と『平家物語』の冒頭にも歌われており、私たちにも馴染み深い仏教のお言葉です。

祇園精舎とは、京都の祇園にある、お寺のことではありません。

お釈迦さまのおられたインドにある、お寺のことです。

そこにある鐘の音が、諸行無常と伝えているようだというのです。

さて、その

「諸行無常」

のお言葉ですが、その意味を聞いてまいりましょう。

はじめに

「諸行」

とは、因縁によってつくられた現象世界のすべてのもののことをあらわします。

つまり、私たちの周りのすべてということです。

それが

「無常」、つまり、すべてのものは生滅・変化して常住ではないというのです。

「そんなことは知っている!!」

と、多くの方はおっしゃるでしょ。

聞かせて頂くと、当たり前のことを、お釈迦さまはおっしゃっているだけなのです。

「生まれた者は、いつしか死ななければならない。」

この私も、いつかは死にゆく者だということは、わかっています。

しかし、それが明日とは、よほどの病に苦しむ中でしか思えません。

当然のように明日がきて、また今日と同じような一日を送るものだと思っています。

でも、どうでしょう。

明日が、今日と同じ一日ではあるはずがありません。

明日は今日と比べて、私たちの身体も変化していますし、考え方も変わります。

また、周りの状況も少しずつかもしれませんが、変化していきます。

毎日の生活が、同じような一日の繰り返しであると感じられるかもしれませんが、それは決して同じ一日ではないのです。

繰り返しにはなりますが、お釈迦さまは、真実は諸行無常とおっしゃいました。

あっという間の私たちの一生涯。

諸行無常の中を生かさせて頂く、私たちの人生とはいったい何なのでしょうか。

答えは簡単に出るものではありません。

しかし、その疑問が、私たちが真理にむかう初めの一歩なのです。

「無常を観ずるは菩提心の一なり」

寒空のもと、少し考えてみられませんか。

諸行無常の響きについて。

小説 親鸞・かげろう記 12月(6)

「ここにも、お見えがない」

侍従介は、いつもの持仏堂をのぞいて、乳母を、責めた。

「おぬしが、よくない。

朝麿さまを抱いておれば、朝麿さまにのみ気をとられているから、かようなことになるのだ」

「今しがたまで、そこの前栽(せんざい)に、おひとりで遊んでおいでなされたので、つい、気をゆるしている間に……」

乳母は、自責に駆られながら、おろおろといった。

「――裏の竹(たけ)叢(むら)へでも」

とつぶやきながら、走って行った。

侍従介は、眉をひそめながら、草履を突っかけて、ふたたび、庭へ下りた。

――そして邸内の畑だの、竹林だの、小山だのを、

「和子さま――」

呼びたてつつ、そしてまた、奥のおん方やお館の耳へは入れたくないように、心をつかいながら、血眼で、十八公麿のすがたを探しまわっていた。

ちょうど、折もわるく。

東の屋(おく)の一室に、あるじの有範は、この安元二年の正月から病にかかって臥せ籠もっていたのである。

そのために吉光の前も良人の病室から一歩も出たことがないような有様であったので、それも一つは、こういう間違いの起る原因でもあった。

で、召使たちは、よけいに心を傷めて、病室にこの過失を知らすまいと努めたのであったが、ひとつ館のうちの出来事ではあるし、そこへ呼ばれてきた侍女(こしもと)の素振りにも不審が見えたので、母である彼女が覚らないはずはなかった。

「十八公麿のすがたが見えぬとて、そう、噪(さわ)ぎたてることはない」

侍女のことばを窘(たしな)めて、彼女は、静かに良人の枕元を離れた。

彼女もまた、それを知るとすぐ、病人の心づかいを惧(おそ)れたからであった。

廊下へ出て、

「まさか、築地をこえて、館の外へ走り出しはすまい。

行けの中の渡殿を見てか?」

「はい、あそこも、探したようでございます」

「池の亀を、面白がって、よう汀(みぎわ)で遊んでいることもあるが、よも、水へ落ちたような

「そんなことは……」

侍女(こしもと)も、落ち着かない。

そして自信のないことばつきで、答えるのである。

「穿物(はきもの)を、だしてください」

沈着に、静かなことばでそういうのであったが、さすがに心のうちでは胸が痛いほど案じられているらしい。

廊下の階(きざはし)に立って、侍女が、穿物(はきもの)を持ってくるまも、もどかしげにその眉が、見えた。

すると、

「姉君、どちらへ?」

前栽の木陰から、誰か、そういって、近づいてくる者が見える。

橡(つるばみ)色(いろ)の直衣に、烏帽子(えぼし)をつけた笑顔が、欄干(おばしま)の彼女を見上げて、

「ひどく、お顔いろがわるいが?……。

それに、介も見えず、裏の木戸も、開け放しになっているではありませんか」

「宗業様、よい所へ来てくださいました。

……今、十八公麿が見えぬというて、介も乳母も、出て行ったところでございます」

「えっ、和子の姿が、見えなくなったと申すのですか」

「このごろ陸奥(みちのく)の方から、人買いとやら、人攫(ひとさら)いとやらが、たくさん、京都(みやこ)へ来て徘徊(うろつ)いているそうな。

もしものことがあっては、良人の病にもさわりますし、私とても、生きたそらはありません」

といううちに彼女の眸は、もう、いっぱいに沽(うる)んでしまう。