投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

私事ではありますが、最近コンタクトレンズを新調しました。

私事ではありますが、最近コンタクトレンズを新調しました。

新しいコンタクトレンズは度数もばっちりで、非常に快適になりました。

私はソフトコンタクトレンズを使用しているのですが、基本的にはコンタクトレンズを購入するには医師の診察を受けなくてはなりません。

視力検査、目の硬さ、目の動きなどいろいろな検査がありますが、その中に涙の量を調べる検査があります。

これは、コンタクトレンズを使用する際、涙の量が少ないと使用できいことがあったりするのですが、幸いにも私の涙の量は多めで、問題はありませんでした。

私は最近、あまり涙を流すことがなくなってきたような気がします。

そう思いながらふと考えたのが、そういえば涙というのはどれくらいの重さなんだろうか、ということです。

『すずめの涙』という言葉がありますが、これは『ごくわずか』という意味だそうです。

でも、実際にはすずめは涙を流さないそうなので、

「小さな生き物であるすずめから出る涙は、ほんの少しだろう」

ということから、『ごくわずかなもの』ということを象徴的に意味している言葉なのかもしれません。

さて、この言葉からもわかるとおり、涙というのは

「重さはどれくらい?」

といわれても、実際にはどれくらいか計算したり測定することは難しいと思います。

しかし、涙というものは、思えば重さはわずかだとしても、その涙には簡単にははかり得ないほどの想いがあるような気が致します。

たとえわずかな重さであったとしても、そこには親の子に対する愛情や、恋人が相手を愛しく想う気持ち、大切な方への惜別の悲しみやせつなさからくる想いなど、様々な深く重い気持ちからでてくるのがこの涙だと思います。

私たちが頂いているお念仏の教え。

この『南無阿弥陀仏』の教えも涙と同じで、本当に深い慈悲の心がこめられているのだと思います。

南無阿弥陀仏は、重さ(質量)がないどころか、たった一言、ものの1秒で言えてしまう言葉です。

でもそのお念仏の言葉の中には、阿弥陀様の尊い心・はかりしれない慈悲があります。

そう思うと、私たちは

「本当に有難い慈悲の御手の中にいさせていただいているなぁ」

と、しみじみと感じることでした。

ふとしたことで、いろいろなことを考えさせていただけるものですね。

今日もお念仏の声の中に、尊い一日を過ごさせていただけたらと思うことです。

親鸞聖人の十念思想 本願の「乃至十念」(前期)

浄土真宗本願寺派(西本願寺)の伝統の宗学においては、江戸時代の宗学者が作り上げた

「安心論題」

を学ぶことが大切にされています。

その中に

「十念誓意」

という論題があり、次のような説明がなされています。

謹んでご論題

「十念誓意」

を按ずるに

【題意】第十八願には

「至心信楽欲生我国乃至十念」

と誓われている。

私たちの救いの成立は、信心一つなのに、なぜ本願に乃至十念が誓われているのか、阿弥陀如来のおこころをうかがう。

【出拠】

第十八願の「乃至十念」

【釈名】

善導大師は

「乃至十念」を

「称我名字、下至十声」(観念法門)、

「及称名号、下至十声一声等」

(往生礼讃)と言いかえ、法然上人は

「念声之義如何。答曰。念声是一」

(選択集)と示されるのである。

聖人は両師を承けられた。

十念の十とは遍数であり、念とは称名念仏である。

誓意とは、阿弥陀仏がこの乃至十念を誓われた意図ということである。

また、聖人には

「乃至」

に四つの解釈(乃下合釈・兼両略中・一多包容・総摂多少)があるが、結局は、

「乃至」

とは念仏の一多不定を示す言葉だということになる。

【義相】

十八願文は機受の全相を示されたものであるが、信心(信楽)とは本願成就の名号を領受した相であり、称名(乃至十念)とはその名号がそのまま口業にあらわれたものである。

聖人も、信巻には

「真実信心必具名号」

と示され(ここでの名号は称名念仏のこと)、他力の信心は必ず称名念仏をともなうとされる。

そしてその念仏は法体大行である名号のひとりばたらきであるから、能称無功で、往生浄土の因とはならず、心持ちからいえば報恩の念仏である。

では何故このような念仏が誓われているのであろうか。

宗祖は、『尊号真像銘文』で

「遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして」

と仰り、『一念多念文意』では

「本願の文に乃至十念とちかひたまへり、すでに十念とちかひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを、いはむや、乃至とちかひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを(中略)易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり」

と示さる。

つまり、信心獲得の上からは、数の多少や時節を問わない、極めて行じ易い称名念仏を相続させようとお誓いくだされているのであり(信相続の易行)、そしてそれは阿弥陀仏の大慈大悲であるということである。

【結び】

称名念仏とは、本願成就の名号(南無阿弥陀仏)を領受し、それが口にあらわれた能称無功(名号のひとりばたらき)の念仏であり、称える心持ちからいえば、如来の救いの中におさめとられているという報恩の念仏である。

そしてその念仏が本願に誓われているのは、信相続の易行としてたやすく、たもち続けられるためであり、それは阿弥陀仏の大慈大悲のあらわれである。

と窺います。

「十念誓意」

というのは、

「阿弥陀仏が本願に十念の救いを誓われた意図は何か」

ということを明らかにすることが課題です。

そして、その結論として、次のようなことが示されています。

第十八願には、阿弥陀仏の心、

「至心・信楽・欲生」

という三つの心が誓われており、それに加えて

「乃至十念」

という語が添えられています。

浄土真宗の往因の中心思想は、信心によって往生するということですから、阿弥陀仏の三心の中に往生の因が求められることになります。

これが

「信心正因」です。

「乃至十念」

という言葉は、その三心の次に出てきますので、

「十念誓意」

の論題は、往生の因を得た後の称名には、どのような意義があるのかということが問われることになります。

「乃至十念」

は、信心をいただいた後の称名ということですから、この称名は当然、報恩の行であるということになるのです。

「死を食べる」(上旬)知らないうちにシカに餌付けしていた

ご講師:宮崎学さん(自然界の報道写真家)

私は自然界の報道写真家と言われていますが、多くの人が知らない自然について、写真を使ってお伝えしたいと思っています。

1枚の写真からどれほどの言葉を紡ぎ出せるか。

そう考えて、写真を撮っています。

「死を食べる」

ということを普段考えもしませんが、私たちは

「死」

を食べて生きています。

現代では、そういう汚い世界は見たくないという風潮がありますが、あらゆる生物は、誕生して必ず死ぬんです。

仏教に九相図という、死体が9つの課程を経て朽ちていく世界が描かれた絵があります。

それは、どれだけ美人であっても、死後は犬やカラス、ウジに食われるむごい世界があることを教える絵なんです。

私はそれを見て

「現代人は、思いっきり忘れているものがある」

と思ったんです。

知らなきゃいけないことなのに、知らないことが多すぎると思います。

これだけ人間が忘れ物をしているのなら、やっぱり伝えなければいけません。

人間は、自然からのバイオマス(生物由来の資源)を大量に吸い上げていながら、全然自然界に還元していません。

それを何とか分かってほしいと思って写真を撮り始めました。

自然界には

「死」

がないと、生きていけない生物がいっぱいいるんです。

生物が死んでくれないと、自然界はなめらかに回っていかない。

幸せなこの現代も、いろんな生物の助けがあって生きているんです。

ニホンジカ、サル、イノシシ、クマという、日本を代表するこの四大動物は、数が減っていると言われていますが、実はむちゃくちゃ増えています。

じゃあ、なぜ増えているのかというと、いろんな環境の変化があるんです。

そこには、私たち人間が非常に深く関わっているんです。

そこに意外と気付いていないのが現代人で、動物が増えるのも減るのも、私たち人間の社会生活とリンクしているんです。

雪道を走るために生まれたスパイクタイヤが使用禁止になって30年経ちますが、それに代わるスリップ対策として、全国の自治体は塩化カルシウムという人工の塩を道路にまくようになりました。

長野県でも、すさまじい量を使っており、その人工の塩が間接的に動物たちに影響を与えているんです。

高速道路では、橋の上は特に風が強く温度変化が激しいので、大量に塩化カルシウムをまきます。

すると、この人工の塩が橋の下に落ちています。

そして落ちた所を見ると、シカの足跡があるんです。

シカは胆嚢(たんのう)がないので、消化にはバクテリアが欠かせません。

このバクテリアがすごく塩分をほしがるため、塩分が大量に必要なんです。

つまり、人間が無意識に餌付けをしていることになります。

私は許可をもらって、その橋の下にカメラを設置し、動物を観察しました。

すると、約80頭のシカが来ていました。

しかし、この事実は地域住民すら知りません。

これはチェーンを巻いて運転すればいいことなんですが、便利さやスピードを求めて半ば強引に雪を溶かしているのが原因です。

その結果、シカを増やしているんです。

これをほとんどの学者や地域住民も気付いていません。

私は、写真家なので、現場をいつも見て、今の時代に自然界から送られてきているサインをどう読んで写真を撮るかを考えているんです。

小説 親鸞・紅玉篇 1月(1)

下婢も、下僕(しもべ)も、仕事が手につかないように、厨(くりや)を空にして外へ出ていた。

箭四郎(やしろう)は、牛小屋の牛を世話したり、厨や湯殿の水汲みをする雑人だったが、やはり心配になって、井口の筧(かけい)に、水桶を置きはなしたまま、

「於(お)久里(くり)どん、和子様は、見つかったかい」

築地の外を、うろうろしていた下婢の於久里は、首をふって、

「どこにも――」

と、昏(くら)い顔をした。

「見えぬのか」

「うん……」

「ふしぎだなあ」

箭四郎は、於久里とならんで、腕ぐみをしていた。

この頃、しきりと、洛外のさびしい里を脅かしている風説が胸の底にさわいでくる。

それは、洛外ばかりでなく、どうかすると、白昼、玄武や朱雀の繁華な巷でも行われる

「稚子攫(ちごさら)い」

のうわさである。

巷の説によると、稚児攫いを職業にする悪者は、男の子ならば室の津の唐(から)船(ふね)へ売りわたし、眉目(みめ)よい女子だと京の人々が、千里もあるように考えている東(あずま)の国から那須野の原をさらに越えて、陸奥のあらえびすどもが京風(みやこ)の風をまねて文化を創っている奥州平泉の城下へ遠く売りとばされてゆくのだという。

それを思い出して、

「もしや、稚子さらいの手にかかったのじゃあるまいかなあ」

箭四郎がつぶやくと、

「そうかもしれない」

於久里も、かなしい眼をした。

だが、すぐに二人の眸が、

「おやっ」

と、かがやいた。

「介だ!」

箭四郎が、突然さけぶと、

「おっ、和子様がっ」

於久里は、転ぶように、木戸のうちへ、駆けこんで行った。

「和子様がもどった」

「和子様」

「和子様」

館のうちにつたわる狂喜の声が、外まできこえた。

「介ッ。

介ッ」

箭四郎は、両手をあげて、呼んでいた。

十八公麿を背に負って、野をななめに、草を蹴って駈けてきた侍従介の顔には、すこしばかり血がにじんで、水に突っこんだように襟くびにまで汗がながれていた。

「箭四っ。

うしろを閉めてくれっ」

あえぎ声でいって、築地の中へ飛びこんだ。

箭四郎は、介にいわれた通り、そこを閉めた。

西の木戸も、表門のくぐりも、硬く閉めておくようにと介はいいつけながら、奥の庭へ駈けて行った。

「おお」

階梯(きざはし)のうえに見えた吉光の前は、介が、十八公麿を下ろすのも待たないで、駈け下りてきて、わが子を抱きとった。

そのまま廻廊の上に戻って抱きしめたまま暫くはうれしいのと緊(は)りつめた心のゆるみで、泣きぬれているのであった。

「和子」

やがて、頬ずりの顔を離すと、母は、心のうちとは反対に、すこしきびしい眼をして、

「この母も、叔父様も、どのように案じていたことか。

つねづね、よう教えてありますのに、なぜ、一人で外へなど出ましたか」

と、叱った。

小説 親鸞・かげろう記 12月(10)

「大人げない奴めっ」

叱咤が、頭のうえで聞こえた。

七郎は、起き上がって、自分を撲(なぐ)った相手を見た。

十九か、二十歳か、せいぜいそんな年頃の若党である。

腕を捲くって、右の肩をすこしあげ、左の手に、泣いている髫がみの童子を抱きよせていた。

「どこの青侍か知らぬが、よい年をして、なんで、稚(おさな)い和子様のお作りなされた弥陀の像を足蹴にして砕いたのじゃ。

それへ、両手をつい、謝れっ」

こう正面を切って罵られると、庄司七郎も陪臣(ばいしん)でこそあれ時めく平家の郎党である。

尾を垂れて退くわけなはゆかなくなった。

「おのれ。

このほうを撲ったな」

「撲った!」

昂然(こうぜん)と、若者は、いって憚(はばか)らなかった。

「人もあろうに、わしの主人の和子様に、無礼を働いたゆえ、打ちのめしたのだ。

それが、どうしたっ」

「おのれは、どこの若党か」

「前(さき)の皇后大進、藤原有範卿に仕える侍従介というものじゃ」

「落魄(おちぶ)れ藤家(とうけ)の雑人か」

「なんであろうと、この身にとれば、天地無二の御主君。

……ささ、和子様、もうお泣きあそばすな」

と、侍従介は泣きじゃくる十八公麿をなだめながら、手の泥や衣服の塵を払って、

「お母様も、叔父様も、乳母も和子様のおすがたが見えぬとて、どんなに、お探し申しているかしれませぬ。

泣き顔をおふき遊ばして、介と一緒に、はよう、お館へもどりましょう」

肩を叩いて、歩みかけると、七郎は、跳び寄って、

「待て、用は済まぬ」

と、介の刀の鐺(こじり)をつかんだ。

介は、振り向いて、

「何か、文句があるか」

「おうっ、今の返報を」

いきなり、拳(こぶし)をかためて、介の頬骨をくだけよと撲りかかった。

しかし、予期していた介は、巧者に、半身をすばやく沈めて、七郎の小手を抱きこむように手繰ったと思うと、

「何をさらすっ――」

どさっと、草むらへ抛(ほう)り捨てた。

草むらには、狭い野川が這っていたと見えて、七郎が腰を打った下から、泥水が刎(は)ねあがった。

「や、や。

あの若党めが、七郎を投げつけたぞよっ。

七郎の仇じゃ、おいかけて、ぶちのめせ」

鞭を打たせて走ってくる輦の上から寿童がわめいた。

介は、それを眺めて、

「和子様、はよう、介の背なかに、おすがりあそばせ。

……相手が悪い。

逃げましょう」

平家の御家人と見て、彼は、無事な策をとった。

と――もう小石の礫(つぶて)が、そちらへ、飛んできた。

輦(くるま)をとび下りた寿童が、石をひろって、ぶつけているのである。

そして、

「あやつら、藤家の者じゃないか、平家のお身内に、指一本でも傷つけたら、相国のおとがめがあることを知らぬのか。

逃がしては、なるまいぞっ。

捕まえろ、牛の背にひっ縛(くく)って、六波羅の探題へ、突き出してくれる」

と、遠くから喚(わめ)いた。

そして、介の逃げ走る方へ、牛飼いや、侍たちと共に、先廻りして陣を布いた。

介は、

「慮外者っ」

と、蹴って、また走った。

小説 親鸞・かげろう記 12月(9)

七郎は、驚いて、

「まま、待たせられい」

だだっ子の寿童丸を、他の家来たちとともに、無理やりに、輦の上へ、抱いて、押し上げようとする。

「嫌だっ、嫌だっ」

小暴君は、轅へ、足を突っ張って、家来の顔をぽかぽか打ったり、七郎の顔を爪で引っ掻いた。

「離せっ、こらっ、馬鹿っ」

「お待ち遊ばせ。

成田兵衛の若様ともあるものが、さような、泥足になって、人が笑います」

「笑ってもよいわ。

わしは、侍の子だ。

いちどいったことは、後へ退くのはきらいだ。

わしが行って、小賢しい童めの土偶仏(でく)を、蹴砕いて見せるのじゃ。

罰があたるか、あたらぬか、そち達は、見ておれ」

「さような、つまらぬ真似は、するものではございませぬ」

「何が、つまらぬ」

寿童丸は、家来たちの肩と手に支えられながら、足を宙にばたばたさせた。

持てあまして、

「それほど、仰っしゃるなら、やむを得ません、七郎が参りましょう」

「行くか」

「主命なれば――」

「それみい、どうせ、行かねばならぬもの、なぜ早く、わしのいいつけに従わぬのだ」

やっと、小暴君は、輦の中に納まって、けろりという。

「――はやく、奪ってこい」

愚昧(ぐまい)な若君だが、こんな懸け引きは上手である。

七郎は、いくら主人の子でもと、ちょっと小憎く思ったが、泣く子と地頭だった。

「承知いたしました」

気のすすまない足を急がせて、丘の下へ、戻ってきた。

(まだいるかどうか?)むしろ、立ち去っていることを祈りながら、七郎は梅花の樹蔭をのぞいた。

見ると、自身で作った三体の土の御像をそこにすえたまま、あの髫(うない)がみの童子は、合掌したまま、さっきと寸分もたがわぬ姿をそこにじっとさせていた。

虻(あぶ)のかすかな羽うなりも鼓膜にひびくような春昼である。

七郎は跫音(あしおと)をぬすませて、童子のうしろへ近づいた、――近づくにつれて、その童子のくちびるから洩れる念仏の低称が耳にはいった、恐ろしい強兵(つわもの)にでも迫ってゆく時のように、七郎は、脚のつがいが慄(ふる)えてきた。

どうにも、脚がある程度を越えられない気がした。

いっそのことやめて引っ返そうかと惑った。

寿童の呼ぶ声が、おうウいと、彼方で聞こえた。

彼は、主人の邸(やしき)へ帰った後の祟りを考えて眼をつぶった。

(そうだ、人の来ぬ間に!)七郎は、跳びかかった。

無想になって合掌している童子の肩ごしに、むずと手をのばした。

一体の像を左の小脇にかかえた。

そして、もう一体の弥陀如来をつかみかけると、童子は、びっくりしたように起って、

「あれっ?――」

愛らしい叫びをあげた。

そして幼子らしく、手ばなしで、わあっと、泣くのであった。

二つの像をかかえて、もう一体の像を七郎が蹴とばしたせつなである。

「おのれッ、この下司!」

ぐわんと、彼の耳たぶを、烈しい掌のひらが革のように唸って打った。

「あっ――」

耳を抑えながら、七郎は、横にもんどり打った。

仏陀の像は、また一つ彼の手から離れ、粉々になって、元の土にかえった。

※「泣く子と地頭」=「泣く子と地頭には勝てぬ」と続き、こちらに道理があっても、泣きわめく子と、権力をかさにきている人にはかなわないということ。