投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

小説 親鸞・紅玉篇 1月(3)

血相を変えて、介が、出て行こうとする様子に、宗業は驚いて、彼の太刀の鞘(さや)をとらえて

「これっ、どこへ参る」

「あの悪口がお耳に入りませぬか。

最前は、十八公麿さまにお怪我をさせてはならぬと、じっとこらえて、お館の内へ逃げこんでは参りましたものの、もう堪忍はなりませぬ。

介は、斬って出て、斬りまくってくれまする」

「逆上したか、相手は、平家の侍の子じゃぞ」

「あの嘴(くちばし)の黄いろい小冠者までを、思いあがらせている平家の横暴さが憎うござります。

素ッ首斬って、介が斬り死にしましたら、少しは、見せしめになって、世間の人が助かりましょう」

「用もない生命(いのち)を捨てるな。

蠅が小癪(こしゃく)にさわるとて、一匹二匹の蠅をたたいたら、数万の蠅がうるさいしぐさをやめるであろうか。

まして、お館も御病中、こらえておれ、黙っておれ」

「ええ、いかに、何でも」

「ならぬぞ、決して、築地の外へ出てはならぬぞ。

おしになれ、耳をないと思え」

「耳も眼も、血もある人間に、それはご無理。

――おのれ、成田兵衛の小伜に、雑人ばら、今日の事、覚えておれよ」

築地越しに、呶鳴ると、どっと外で嘲笑(あざわら)う声がした。

牛糞や、棒切れが、ばらばらと庭の内へ落ちた。

介ばかりではない。

厨の召使たちも、歯がみをしてくやしがった。

けれど、宗業もなだめるし、吉光の前もおののきふるえて、

「こらえてたも。

相手になることはなりませぬぞ」

頼むばかりにいうので、涙を溜めながら、だまって鳴りをしずめていた。

すると、奥の小者が、あわただしく廊下を駈けてきて、

「おん方様、宗業様、すぐおこし下さいませ、すぐに」

語気のふるえに、二人は、ぎょっとして、

「どうしやった?」

「お館様の御容体が、にわかに変でござります。

唇のいろも、お眸も、急に変わって…」

「えっ、お悪いとな」

宗業は、走りこんだ。

吉光の前も、裳(すそ)をすべらせて、良人の病間へかくれたが、やがてすぐ、宗業が沈痛な眉をして、そこから出てきた。

そして早口に、

「介っ、介――」

と、呼んだ、介は、階段の下に、黙然と浮かない顔で腕ぐみに沈んでいたが、

「はいっ、介は、これにおりますが…」

「オオ、急いで、お医師の所と、その足ですぐに、六条の兄君のところへ、お報らせに走ってくれい」

「では、お病状が…」

「ウム、もはや望みがないかも知れぬ。

いそいでゆけよ」

「はいっ、はいっ」

木戸へと、駈けて行くと、

「介っ――」

と、宗業はもいちど、声をかけた。

「くれぐれも、六波羅衆の息子などにかまうなよ。

何と罵られても、耳をおさえて、走って行くのだぞ。

よいか」

「はいっ」

「頼むぞ、はやく」

介は、築地の木戸を開けて、夢中で外へおどり出した。

小説 親鸞・紅玉篇 1月(2)

「あ、もし」

介はあわてて、吉光の前のことばを遮った。

「――おしかり遊ばすな。

和子様のは、世間のいたずら童が、飛びまわるのとは違いまする」

「でも、こういう時には」

「ごもっともです。

けれども、介の存じますには、おそらく、和子様は、お父君のお病気(いたつき)に、小さな胸をおいためあそばして、それを、お祈りしていたのではないかと思われます」

「ほ……どうして?」

「介が、諸方をお探しして行きますと、いつか、和子様をおぶって粘土(こねつち)を取りに参りました丘の蔭にこう、坐っておいであそばしました」

介は、庭へ坐って、十八公麿がしていたとおりに真似をして合掌した。

そして、三体の弥陀如来の像を作っていたこと、一心に何か祈念していたこと、それがとても幼い者の振舞とは思われないほど端厳(たんげん)な居ずまいであったことなど、目撃したままを、つぶさに話した。

「まあ……和子が……」

母の眸には、涙がいっぱいで、それが笑顔にかわるとたんに、ぽろりと、白いすじが頬に光った。

「では……そなたは、お父君のおいたつきが癒(なお)るようにと、その小さい手で、御仏の像を作っていたのですか。

……そうかや?」

頭髪(つむり)をなでると十八公麿は、母の睫毛(まつげ)を見あげて、幼ごころにも、なにか、すまないものを感じるようにそっと、うなずいて見せた。

報(し)らせを聞いて、宗業も戻ってくる、乳母も、眉をひらいて駈けてくる。

侍女(こしもと)や下婢(しもべ)までが、そこへかたまって、口々に、十八公麿の孝心を称えた。

それに、粘土(こねつち)で仏陀の像を作っていたということが、大人たちの驚異であった。

宗業だけは、そう口に出して、賞(ほ)めそやしたり称えたりはしなかったが、家族たちの手にかわるがわる抱き上げられてききとしている十八公麿の姿に、まったく、心を奪われたように見入っていた。

そして、

(この子は――)と、将来の眩(まば)ゆさを感じ、ひざまずいて、礼拝したいような気持にうたれた。

すると、築地の外に、黄いろい砂ほこりが舞って、がやがやと、口ぎたない喚き声がきこえた。

「ここじゃな、貧乏公卿の有範の邸は」

介の後を追ってきた寿童丸と、その家来たちらしかった。

「やいっ、今の若党。

出てうせいっ。

ようも、わしが家来を、投げおったな。

出てうせねば、討ち入るぞよ。

こんな古土塀の一重や二重、蹴つぶして通るに、なんの雑作もないわ」

そしてまた、

「臆病者、答(いら)えをせぬか。

寿童冠者が勢いに怯(お)じて、音(ね)も出さぬとみえる。

――皆の者、石を抛(ほう)れっ、石を抛れっ」

声がやむとすぐ、ばらばらっと、石つぶてが、館の廂(ひさし)や縁に落ちてくる。

一つは、宗業の肩を打った。

「なんじゃ、あの業態(ぎょうてい)は?」

介は、睨(ね)めつけて、

「おのれ」

と、口走った。

そして太刀の反りを打たせて、

「おうっ、たった今、出会うてやるほどに、そこ、うごくなっ」

『かぎりなき光をうけてここにあり』(前期)

昨年12月にお寺の新納骨堂が完成いたしました。

10数年前に建てられた旧納骨堂がいっぱいになり、ここ数年

「納骨堂を新しく建てないのだろうか」

という問い合わせが増えてきていました。

そのご要望にお応えする形で新に建てた次第です。

今から2年前に、実際にどのくらいの方々が納骨堂を希望されているのかを把握するためにアンケートをとりましたところ、予想以上に多くの人が希望されていることがわかりました。

10数年前に納骨堂が出来た時には、まだ必要はないと感じていた方々も、それから10年が経ち

「足が痛くなった」

「腰が痛くなった」

等々の理由で、十分にお墓にお参りできなくなったという人。

また、子どもが遠くに住んでいて、もう地元には帰ってこないので、墓を将来見てくれる人がいない。

それが不安でという声も多くありました。

お彼岸やお盆になりますと、多くの人々が県外から帰ってきて、納骨堂にお参りにこられます。

しかし、遠く離れていると、なかなか頻繁に帰ってお参りするというのは厳しいのが現状のようです。

だからこそ今、将来のことを考えて、納骨堂を求める人が増えているのです。

鹿児島は、特にお墓を大切にする土地柄であり、お花が常に綺麗にお供えされています。

県外からきた方々がよく感心しておられます。

墓地・納骨堂にお参りし、先祖を偲ぶとともに、そのことを通して我が命の有り様を静かに見つめさせていただける場所がお墓・納骨堂なのでしょう。

お念仏のみ教えを大変喜ばれた人を

「妙好人」

と呼びます。

その妙好人の一人で、讃岐の庄松さんは、生涯独身でありました。

その身寄りのなかった庄松さんが病床に臥したとき、お見舞いにこられた方が

「あなたが亡くなったら、立派なお墓を建ててあげましょう」

と言うと、庄松さんは

「おれは石の下にはおらぬぞ」

と言われたそうです。

お墓にお参りするということは、亡き人を偲び、我が身を省みるという意味でも尊いことです。

凡夫の情という意味においても、亡き人のお骨という形あるものとして繋がる大切な場所です。

しかし、その一方で庄松さんが仰ったこの

「おれは石の下にはおらぬぞ」

という言葉も大切にしたいものです。

私は、死んで墓石の下にいるのではなく、いのちの縁が尽きたと同時にひかりといのち極みなき浄土に生まれ往き、仏と同じ悟りをひらかせていただき、この娑婆世界に還りきたりて生きとし生くる全ての者を救うはたらきをさせていただくのだということでありましょう。

「どうぞ、仏さまの智慧の光に照らされて生ききる人生を歩んでくださいよ」

と、お伝えくださったことと頂くことです。

阿弥陀如来さまの智慧の光に照らされ、お慈悲のぬくもりの真っ只中で生かされているわたしのいのちであると聞かせていただくとき、日々安心して生き、安心していのち終わっていくことのできる人生がひらけてくるのではないでしょうか。

阿弥陀如来さまの大いなるはたらきのなかに今、私は確かに生かされてあるのです。

嫁ぎ先は神道ですが、私は浄土真宗の門徒です。どうすればよいですか?

結婚を機に、嫁ぎ先の信仰に従わなければならないか。

このことは浄土真宗に限らず多くの皆さまも特に関心があるのではないでしょうか。

同じ宗門の家庭であればさほど気にすることもないでしょうが、信仰とは何か、そのことも踏まえながら考えてみたいと思います。

多くの方の中には例えば幼い時に、ご両親や祖父母に連れられてお寺やお墓参りに行ったり、家庭のお仏壇の前で見よう見まねで親のするように手を合わせたり、このことが宗教、信仰というものとの出会いの始まりではないかと思います。

そのような尊いお育てを経て家の宗教を知り、また親の後ろ姿から信仰に生きる姿勢を身近に感じ、慣れ親しんだ習慣として自分の身に受け継がれているものでもあるはずです。

長い長い時間と伝統の中で信仰の灯火が子や孫へと代々受け継がれてきた歴史と言えるかもしれませんね。

それが結婚を機に、嫁ぎ先のご宗旨に私も従わなければならないのかということですが、まず信仰ということについて申しますと、信仰は家のためではなく

「私の歩む道」

であるべきものです。

信仰は他の誰のためのではなく、私の宗として生きる姿が本来であります。

ですが、やはり嫁いだ以上夫やそのご両親の手前、自分はこの信仰ですからとはなかなか言えませんし、このことで家庭内の関係を悪化させてもいけません。

ここで大切に押さえておきたいことは、自分の宗旨以外の宗教を決して否定してはならないということです。

また逆に強制したりされてもいけません。

宗旨が違うからといってご法事に参列しなかったり、ご本尊を礼拝しないというのは大変失礼であり、相手のご宗旨以前に自分の信仰の姿勢を問い質さなければなりません。

信仰は誰のうえにも尊重されるべきものです。

私の存じ上げている方で、もうどちらもお亡くなりになりましたが、お父さんはクリスチャン、お母さんは浄土真宗門徒であったご家庭があります。

先にお母さんが亡くなりましたが、よくお寺にも参られ、仏教婦人会員としてもいろいろとお世話をいただいたことです。

お葬式の時はもちろん仏式で葬儀を行い、クリスチャンであるお父さんも喪主として参列されました。

またそのお父さんもクリスチャンとして日曜には教会の集いに参加されるなど信仰を大切にされる方で、葬儀もキリスト教式で行われました。

その息子さんが葬儀の最後に、

「私も、そして母も仏教徒でしたが、父は若い頃よりクリスチャンとして洗礼も受け、最後も父の信仰にもとづき、キリスト教式でお葬式を行いました」

と挨拶をされました。

私はこのことは大変素晴らしいことだと思いました。

夫婦、家族の中で信仰の違いを認め合い、お互いの信仰を大切に敬う環境は、まさにこの質問の理想的な答えでもあるように思います。

夫やその家族が自分と違うご宗旨であっても、その信仰は大切に尊重し、また自分の思いや信仰も尊重されなければなりません。

信仰そのものは何よりも私の歩む道であります。

自分の生き方として大きな指針となるものです。

家族でよく語り合いながら、信仰ということについてお互いが思いを深めていくがまず大切なことでありましょう。

私事ではありますが、最近コンタクトレンズを新調しました。

私事ではありますが、最近コンタクトレンズを新調しました。

新しいコンタクトレンズは度数もばっちりで、非常に快適になりました。

私はソフトコンタクトレンズを使用しているのですが、基本的にはコンタクトレンズを購入するには医師の診察を受けなくてはなりません。

視力検査、目の硬さ、目の動きなどいろいろな検査がありますが、その中に涙の量を調べる検査があります。

これは、コンタクトレンズを使用する際、涙の量が少ないと使用できいことがあったりするのですが、幸いにも私の涙の量は多めで、問題はありませんでした。

私は最近、あまり涙を流すことがなくなってきたような気がします。

そう思いながらふと考えたのが、そういえば涙というのはどれくらいの重さなんだろうか、ということです。

『すずめの涙』という言葉がありますが、これは『ごくわずか』という意味だそうです。

でも、実際にはすずめは涙を流さないそうなので、

「小さな生き物であるすずめから出る涙は、ほんの少しだろう」

ということから、『ごくわずかなもの』ということを象徴的に意味している言葉なのかもしれません。

さて、この言葉からもわかるとおり、涙というのは

「重さはどれくらい?」

といわれても、実際にはどれくらいか計算したり測定することは難しいと思います。

しかし、涙というものは、思えば重さはわずかだとしても、その涙には簡単にははかり得ないほどの想いがあるような気が致します。

たとえわずかな重さであったとしても、そこには親の子に対する愛情や、恋人が相手を愛しく想う気持ち、大切な方への惜別の悲しみやせつなさからくる想いなど、様々な深く重い気持ちからでてくるのがこの涙だと思います。

私たちが頂いているお念仏の教え。

この『南無阿弥陀仏』の教えも涙と同じで、本当に深い慈悲の心がこめられているのだと思います。

南無阿弥陀仏は、重さ(質量)がないどころか、たった一言、ものの1秒で言えてしまう言葉です。

でもそのお念仏の言葉の中には、阿弥陀様の尊い心・はかりしれない慈悲があります。

そう思うと、私たちは

「本当に有難い慈悲の御手の中にいさせていただいているなぁ」

と、しみじみと感じることでした。

ふとしたことで、いろいろなことを考えさせていただけるものですね。

今日もお念仏の声の中に、尊い一日を過ごさせていただけたらと思うことです。

親鸞聖人の十念思想 本願の「乃至十念」(前期)

浄土真宗本願寺派(西本願寺)の伝統の宗学においては、江戸時代の宗学者が作り上げた

「安心論題」

を学ぶことが大切にされています。

その中に

「十念誓意」

という論題があり、次のような説明がなされています。

謹んでご論題

「十念誓意」

を按ずるに

【題意】第十八願には

「至心信楽欲生我国乃至十念」

と誓われている。

私たちの救いの成立は、信心一つなのに、なぜ本願に乃至十念が誓われているのか、阿弥陀如来のおこころをうかがう。

【出拠】

第十八願の「乃至十念」

【釈名】

善導大師は

「乃至十念」を

「称我名字、下至十声」(観念法門)、

「及称名号、下至十声一声等」

(往生礼讃)と言いかえ、法然上人は

「念声之義如何。答曰。念声是一」

(選択集)と示されるのである。

聖人は両師を承けられた。

十念の十とは遍数であり、念とは称名念仏である。

誓意とは、阿弥陀仏がこの乃至十念を誓われた意図ということである。

また、聖人には

「乃至」

に四つの解釈(乃下合釈・兼両略中・一多包容・総摂多少)があるが、結局は、

「乃至」

とは念仏の一多不定を示す言葉だということになる。

【義相】

十八願文は機受の全相を示されたものであるが、信心(信楽)とは本願成就の名号を領受した相であり、称名(乃至十念)とはその名号がそのまま口業にあらわれたものである。

聖人も、信巻には

「真実信心必具名号」

と示され(ここでの名号は称名念仏のこと)、他力の信心は必ず称名念仏をともなうとされる。

そしてその念仏は法体大行である名号のひとりばたらきであるから、能称無功で、往生浄土の因とはならず、心持ちからいえば報恩の念仏である。

では何故このような念仏が誓われているのであろうか。

宗祖は、『尊号真像銘文』で

「遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして」

と仰り、『一念多念文意』では

「本願の文に乃至十念とちかひたまへり、すでに十念とちかひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを、いはむや、乃至とちかひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを(中略)易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり」

と示さる。

つまり、信心獲得の上からは、数の多少や時節を問わない、極めて行じ易い称名念仏を相続させようとお誓いくだされているのであり(信相続の易行)、そしてそれは阿弥陀仏の大慈大悲であるということである。

【結び】

称名念仏とは、本願成就の名号(南無阿弥陀仏)を領受し、それが口にあらわれた能称無功(名号のひとりばたらき)の念仏であり、称える心持ちからいえば、如来の救いの中におさめとられているという報恩の念仏である。

そしてその念仏が本願に誓われているのは、信相続の易行としてたやすく、たもち続けられるためであり、それは阿弥陀仏の大慈大悲のあらわれである。

と窺います。

「十念誓意」

というのは、

「阿弥陀仏が本願に十念の救いを誓われた意図は何か」

ということを明らかにすることが課題です。

そして、その結論として、次のようなことが示されています。

第十八願には、阿弥陀仏の心、

「至心・信楽・欲生」

という三つの心が誓われており、それに加えて

「乃至十念」

という語が添えられています。

浄土真宗の往因の中心思想は、信心によって往生するということですから、阿弥陀仏の三心の中に往生の因が求められることになります。

これが

「信心正因」です。

「乃至十念」

という言葉は、その三心の次に出てきますので、

「十念誓意」

の論題は、往生の因を得た後の称名には、どのような意義があるのかということが問われることになります。

「乃至十念」

は、信心をいただいた後の称名ということですから、この称名は当然、報恩の行であるということになるのです。