投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

小説 親鸞・北面乱星 1月(5)

草の育つ夜の雨であった。

乳のように、しとしとと蔀(しとみ)にしたたる雨だれの宵――。

範綱は、少し疲れた筆をおいて、燭の丁子を剪(き)った。

どこからか入る濡れた風には若葉のにおいがして、この雨上がりの後に来る初夏が思われる。

「はやいの――。

もう一年になる」

机に、肱(ひじ)をやすめて、範綱は弟の死を憶(おも)い回(かえ)した。

有範の世を去ったのが、ちょうど去年の五月である。

それから間もなく、二人の遺子と、若後家とを、この六条の家にひき取ったが、自分にそれだけの生活力がにわかに増したわけではないので、範綱は、院のお手当の他に、何か収入を計らなければならなかった。

色紙や懐紙に歌を書いたとて、それは足しにもならないし、大きな寺院から写経の仕事をひそかにもらって、筆耕に等しい夜業(よなべ)をしたりしていた。

だが、それも倦む。

倦むと時々、

「時勢が時勢なら――」

と、平家の世をのろわしく思うてもみるが、結局、無力なものと愚痴と自嘲して、子どもの顔でも見て忘れようと思うのであった。

今も、

「……もう寝たか」

自分の室を出て、渡り廊下をこえた一棟のうちをのぞくと、

「おお入らせられませ」

若後家の吉光の前は、帳(とばり)の蔭に、添寝して寝かしつけていた朝麿のそばからそっと起きてきて、敷物をすすめた。

「この二、三日は、朝麿の泣き声が、ひどう、むずかるようだが……」

「ちと、虫気(むしけ)でございましょう」

「十八公麿は」

「あれにおります」

「まだ、起きているか」

次の狭い室をのぞくと、なるほど、ほたる火のような淡暗い燈心を立てて、今年五歳になる十八公麿は、小机へ坐って、手習いをしていた。

「勉強か。

えらい」

賞めながら、立って行って、墨に濡れた草紙をのぞきこんだ。

「うーむ、以(い)呂波歌(ろはうた)か。

……その手本は、誰がいたした」

十八公麿は、ふりかえって、

「叔父さまに」

と答えた。

「宗業が、そちのために、書いたのか。

……これほどの仮名の名手は、探してもそう数はない。

よい師を持っていて、お汝(こと)は、しあわせ者だ」

「お父様も、おうたを書いてくださいませ」

「書にかけては、宗業にはかなわぬ。

わしは、今にお汝がもっと大きゅうなったら、和歌の道を教えよう。

和歌は日本人(やまとびと)の心の奏でじゃ。

成人して、何になろうと、たしなみほどはあってもよい」

誰か、その時、渡殿の廊下を、みしみしと歩いてきた。

「――誰じゃ」

「箭四郎でございます」

日野の家を移る時から従いてきた下僕(しもべ)は、この箭四郎と、若党の介だけであった。

介は、先ごろ故郷(くに)にのこしてある老母の病があついという報らせで、田舎へ帰っていてこの二月(ふたつき)ほどいなかった。

「吉光様へといって、ただいま、かような文を投げ入れて参った者がございますので――」

と、箭四郎は、雨によごれた一通の書状を、彼女の前へさし出した。

「燭の丁子を剪った」

=灯心の燃えさしの先に出来た丁子のような形をした固まり(かす)を切った。

『かぎりなき光をうけてここにあり』(中期)

親鸞聖人は

「南無阿弥陀仏は光の如来である」

とおっしゃっておられます。

「如来」

というのは

「仏さま」

のことですが、普通

「光の如来」

という言葉を聞きますと、私たちはどこかに阿弥陀仏という存在がいて、例えば灯台のように周りに対して阿弥陀仏が光を放っているという光景を想像するものですが、親鸞聖人のこの言葉は

「光の他に阿弥陀仏という存在はない。

阿弥陀仏とは、光のはたらきそのものだ」

ということを明らかにしておられるのです。

ところが、私たちは誰もが子どもの頃から科学的な物の見方、考え方を教育によって刷り込まれていますので、そのように説明されても、今度はその光が自分の目に見えるということがないと、いくら

「光の如来」

だと言われても、それはいったいどういうことなのか、理解することは極めて難しいと思われます。

親鸞聖人は、このことについて

無碍光仏は光明なり、智慧なり。

この智慧はすなわち阿弥陀仏。

と述べておられます。

「無碍光」

というのは、何ものにも妨げられずに光が通るという、光のはたらきを表す言葉です。

ただし、その妨げられないということは、たとえばここに一つの物があるとすると、その物のために光がはねかえさえたり、そこで光が止まってしまったりせずに、光がどこまでもただ通っていくということではありません。

もし光がどこまでもただ通って行くというだけのことなら、その光は物を無視し、何もかかわりを持つこともなく、勝手に光っているだけということになります。

そして、そのような光なら、物の方から言えば、あってもなくても同じ光でしかありません。

無碍にはらたく光とはそのような意味ではなく、あらゆる物、あらゆる場の上に等しくはたらくというところに、無碍なる光という意味があるのです。

つまり無碍というのは、どこまでも、光としてのはたらきが無碍だということなのです。

そして、その光としてのはたらきというものは、いかなるものを等しく照らしだし、その照らしだすことによって、すべてのもののそのまことのすがたをあらわにして行くことにあるのです。

さて、ここでの問題は、光明としての智慧ということです。

光明としてあらわされる智慧とは、どのような智慧なのか。

言い換えると、なぜ阿弥陀仏の智慧が光明をもって表されるのかということになります。

例えば、自分のいる部屋から光を全部取り去って、その部屋を真っ暗にしたとします。

そのとき私たちが真っ暗闇の中で出来ることといえば、手さぐりで部屋を出ていくということだけです。

まさに、光がないときの私たちの生き方は、手さぐりをしながら生きる他はありません。

では、その手さぐりの生活とはどのようなものかというと、自分の判断、自分の体験だけを頼りにして生きてゆくということです。

そして、もしそういう自分の判断、自分の体験だけを頼りとして生きていくということになると、私たちはどうしても物の見方が一面的になってしまいます。

つまり、自分の体験だけにとらわれてしまって、なかなか物事の本質が見抜けなくなってしまうのです。

そのような生き方に陥ると、人生の全体像が見えなくなってしまい、自分の体験だけを後生大事にかかえ、それを絶対的な基準にして人生を解釈してしまいます。

光明としての智慧がないとき、人はかならずそういう過ちを犯してしまうのです。

中国の善導大師のお言葉に

経というは経(たていと)なり。

経(たていと)よく緯(よこいと)を持(たも)つ。

疋丈(ひつじょう)を成ずるを得。

と有ります。

これは

「経(たていと)がよく緯(よこいと)を保って、布を織り上げることが出来る」

と言われているのですが、もともとこの

「経」

という文字は、織機の前に人が座って布を織っている姿をかたどったものです。

ですから、生活の中に経典(仏法)をいただくということは、その生活の中にたて糸をしっかり張ることなのです。

縦糸をはることによって、全ての体験を一つの世界にまで織り上げていくのです。

このことから言いますと、手さぐりの生活というのは、いわば縦糸なしに横糸ばかりを積み重ねているようなものです。

それでは、どれだけ積み重ねても、布には織り上がりません。

しかも、そのような手さぐり生活においては、手さぐりしている自分の姿は自身には決して見えませんし、自分自身に目覚めるということもないのです。

このようなことから、仏教の智慧が光で表される第一の意味は、私たち一人ひとりに抜き難くあるところの、自分の体験への執着そのものを破るはたらき、それが仏教の智慧だということです。

つまり、仏教でいう智慧とは、あれも知っている、これも知っているということではなく、まわりがはっきり見えるということです。

そして、そのことは同時に、手さぐりしている自分がはっきり見えるということに他なりません。

見えてくるという言い方をしますと、何かまわりをただ眺めているだけのことのようですが、そうではなく、本当に見えたというときには、その事実にしたがって生かされていくということになります。

そして、それがたとえ今までの自分の体験によって培ってきたものの考え方をその根底から否定し、ひっくり返すようなものであっても、それが事実であるかぎり、事実を事実として受け止め、生きてゆく勇気と情熱としてはたらくのです。

手さぐりの生活においては、どこまでもただ自分の体験だけが依り処になっています。

そのときには、自分自身を依り処にして生きているように思うのですが、実はそうしている自分自身は少しも見えていないのです。

自分自身というものは、実は他の人と出会って行く中で次第にあらわになり見えてくるものです。

具体的には、他人の生き方にふれたとき初めて、ああ自分の生き方もこうだったのかということが分かってくるのです。

したがって、自分の体験したことしか見えていない人には、自分の本当の生き方というものは見えないのです。

他の人がそれぞれ一生懸命に生きている姿にふれたとき、ああ今までの自分はこうだったのかということが、逆に知らされてくるのです。

それは、自分を超えた世界にふれたとき、初めて自分の姿も見えてくるということです。

闇をもって表される智慧のない生活は、手さぐりの生活であり、その手さぐりの生活においては、遂に手さぐりをしている自分自身は見えないということを申しました。

その自分自身が見えないということは、この身に賜っているいのちそのもの、この私の人生そのものを受け止め、見通す眼が持てないということです。

全体を見渡し見通す眼を賜り、全体の中に生かされている自分自身を知らされるということは、この人生において何が根本問題であるかをはっきりと見極める智慧を賜るということです。

それは、このいのちが帰って往く世界を見いだすということになるのですが、私たちは、自分のいのちの帰って往く世界を持つとき、初めてその人生が方向性をもった確かな歩みとなるのです。

「人間の眼は光そのものを見ること出来ないが、光に照らされて我が身を見ることは出来る」

と言われます。

確かに、迷いに満ちた私たちは仏さまの智慧の光を見ることは出来ません。

けれども、その光に照らされて、私自身の愚かな姿を知ることは出来ます。

そのような生き方にめざめるところに

「かぎりなき光をうけてここにあり」

という生き方が生まれてくるように思われます。

仕事でミスをしたとか、人間関係がうまくいかない…。

仕事でミスをしたとか、人間関係がうまくいかない…。

こうした愚痴や悩みを有料で聞いてもらえる

「話し相手サービス」

が人気を呼んでいるそうです。

現代は、人間関係が希薄になり、

「無縁社会」

という言葉も聞かれるようになりました。

そのため、悩み事があっても、自分の周囲に親身になって話しを聞いてくれる相手が見つからなかったり、その一方周囲の人に秘密が漏れることを恐れて言葉を呑み込み、その結果ストレスを溜め込んでしまう人も少なくないようです。

こうした中、電話やスカイプを通して、仕事の愚痴や人間関係の悩みなどを聞いてくれる有料の

「話し相手サービス」

が盛況なのだそうです。

基本的な内容は、サービスを提供している会社に連絡すると、自宅で待機しているスタッフと話ができるというもので、事前予約が必要な場合が多いのですが、料金は前払い制で、相場は10分500円〜1000円程度。

スタッフが依頼者からの話を聞く際は、決して相手を批判したり否定したりするようなことなく、話し相手の価値観に立って話を聴く

「傾聴」

というテクニックを使っています。

したがって、基本的にスタッフは

「はい」とか

「そうですか」

といった相槌を打ちながら聞き役に徹するため、電話相談のように、話を聞いてもらっても解決策が得られるというわけではありません。

しかし、同僚や友人に話すと、時として正論で返されて、むしろ傷ついてしまう場合があったりします。

そのため、お金を払ってでも悩みを打ち明ける相手がほしいという人は少なくないようです。

サービスを提供している会社によると、依頼者からの話の内容でもっとも多いのが

「人間関係の悩み」

だそうです。

その他、自慢話やその日にあった出来事、病気や介護の悩みなど、語られる内容は幅広く、また突然寂しさに襲われ、昼夜問わず電話してくる人もいるため、スタッフが交代で24時間対応しているのだそうです。

一方、ふるさとを離れて一人暮らしをしていたり、日中一人で留守番をしている高齢の両親のために、話し相手サービスを利用する依頼者も増えているそうです。

そのため、定期的に高齢者に電話を入れる安否確認付きの相手サービスを提供している会社もあったりします。

この場合、高齢者の孤独感を解消するとともに、

「食事を済ませましたか」

「薬を飲まれましたか」

「体調を崩しておられませんか」

など、依頼者が気になる情報を会話の中に盛り込むことも可能だそうです。

電話の回数は月1回(980円)から毎日(7000円〜)と自由に選択できるそうです。

なかには、依頼者の自宅などへの出張サービスを行う会社もあり、話し相手サービスは花盛りとのこと。

話し相手を有料で探すというのは少し寂しい気もしますが、心の病を防止するためにも日頃のストレスは早めに吐き出すようにしたいものです。

新聞報道によれば、学校の先生も心の病を理由に休職する人が5000人を超えているとか…。

心の病は、外からは見えない上に、

「いつ治る」

という見込みが立たないだけに、一層深刻化していくようです。

「人間は事実だけではつぶれない」

と言われます。

どれほど辛くても、苦しくても、その思いを聞いてくれる誰かがいれば、また立ちあがって行くことが出来るものです。

けれども、誰も自分の話を聞いてくれる人がいない、誰にも自分を分かってもらえないと思った時に、心を閉ざし生きる勇気さえもなくしてしまうのが

「人間」です。

このような意味で、たとえ有料ではあっても、

「話し相手サービス」

の果たしている役割は、きわめて大きいと思います。

親鸞聖人の十念思想 本願の「乃至十念」(中期)

そこで、宗学で

「十念誓意」

といえば、

「信心正因・称名報恩」

の大前提をもとに、第十八願の十念は、報恩行であるということを論証するために、多くの宗学者により精緻な論考が積み重ねられてきました。

そこで、この一点は動かしてはならないというのが、この論題の意義になります。

つまり

「信心正因・称名報恩」

が宗学の基本思想であって、これを動かすことは出来ないことをこの論題は教えている訳です。

確かに、親鸞聖人は涅槃の真因、すなわち私が仏になる根本の因は、ただ信心にあると言われます。

したがって、伝統の宗学においては

「信心正因・称名報恩」

の義を、少しでも揺るがすことは許されないのです。

そのため、

『本願の「十念」は、称名報恩の義である』

これが、厳然たる宗義の根本であると考えなくてはならない訳です。

さて、ここで重要なことは、

「信心正因・称名報恩」

という宗義は、親鸞聖人の思想全体の結論を示しているということです。

したがって、親鸞聖人の教えの全体をもし一言で言うとするなら、信心が往生の正因であるといって間違いではありません。

けれども同時に、信心正因という親鸞聖人の思想は、親鸞聖人の第十八願の解釈の全体ではないということもはっきりつかんでおく必要があります。

なぜなら、親鸞聖人が第十八願を解釈される場合、この三心と十念は

「信心正因・称名報恩」

であるとは述べておられないからです。

そうしますと、親鸞聖人は第十八願をどのように解釈しておられるかということを改めて問う必要がここに生じます。

それは、本願の

「十念誓意」と、

「信心正因・称名報恩」

の義とは、全く別の問題だということです。

では、親鸞聖人は第十八願をどのように解釈されたのでしょうか。

そのことについて、親鸞聖人のお言葉を通して考えてみたいと思います。

親鸞聖人が第十八願、特に

「乃至十念」

について直接述べておられる箇所は、それほど多くはありません。

それらを示せば、次の通りです。

(1)「乃至十念」

とまふすは、如来のちかひの名号をとなえむことをすすめたまふに、遍数のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。

(「尊号真像銘文」)

(2)「称我名字」

といふは、われ仏になれらむに、わがなをとなへられむとなり。

「下至十声」

といふは、名字をとなへられむこと、しも、とこゑせむものとなり。

下至といふは十声にあまれるもの、一念二念聞名のものを往生にもらさずきらはぬことをあらはししめすとなり。

(「尊号真像銘文」)

(3)「乃至十念」

とちかひたまへり。

すでに十念とちかひたまへるにてしるべし。

一念にかぎらずといふことを、いはむや乃至とちかひたまへり。

称名の遍数のさだまらずといふことを。

この誓願はすなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり。

(「一念多念文意」)

(4)「乃至十念若不生者不取正覚」

といふは、選択本願なり。

この文のこころは、乃至十念のちかひの名号をとなへん人、もしわがくににむまれずば仏にならじとちかひたまへるなり。

乃至はかみしも、おほきすくなき、ちかきとをき、ひさしき、みなおさむることばなり。

多念にこころをとどめ、一念にとどまるこころをやめんがために、未来の衆生をあはれみて、法蔵菩薩かねて願じまします御ちかひなり。

(「唯信鈔文意」)

(5)「…下至十声…」

とまうすは、弥陀の本願には、下至といへるは、下は上に対して、とこゑまでの衆生かならず往生すべしとしらせたまへるなり。

(「唯信鈔文意」)

(6)「…下至十声…」

とまうすは、弥陀の本願はとこゑまでの衆生、みな往生すとしらせむとおぼして、十声とのたまへるなり。

(「唯信鈔文意」)

(7)弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽にむかへんとちかはせたまひたる…。

(「末燈鈔」)

(8)弥陀の本弘誓願は、名号を称すること、下至十声聞等に及ぶまで、定で往生を得しむ…。

(「教行信証」)

以上で、ほぼ全部ではないかと考えられます。

したがって、これが親鸞聖人の

「十念」

の解釈ということになります。

この

「十念」

の解釈の中には

「報恩行」

という言葉もその意味も出てきません。

それは、端的には、親鸞聖人は本願の

「十念」

を報恩行の義には解釈しておられないということです。

「死を食べる」(中旬)ハエがいないと素敵な生活はない

数が増えているシカですが、弱い動物なのですぐ死んでしまいます。

じゃあ、これにカメラを向けようと思いました。

撮影したシンの死体写真を見ていくと、しばらくしたらタヌキが現れてあっという間に死体がなくなります。

次にキツネが来ます。

骨もほとんどなくなり、原型をとどめていません。

冬でしたが、3カ月で死体がきれいになくなりました。

冬の死体というのは、そこに五体満足残らないんです。

冬でもキツネなどの動物は活動できますので、安心して食べられる所へ、少しずつちぎって持っていくんです。

ですから、現場には骨すら残らない。

これが冬の動物を処理する作法の例です。

あちこちに持っていって食べられない部分は置いていき、それが地域のネズミの栄養になるというように、自然界って非常にうまく分配系が出来ているんです。

お互いが持ちつもたれつの関係、それぞれがつながって生きているんです。

そして、とうとう骨もなくなり、夏には毛も残りません。

ここに死体があったなんて、全く想像できないような状況が展開されるんです。

自然界の掃除屋さんと呼ばれ、家庭の生ゴミも食べてしまうようなタヌキですが、5月下旬に見つかったタヌキの死体を見ますと、ものの3日でウジだらけになっています。

そして、ものすごい勢いでウジがタヌキを食べ、あっという間に死体はなくなりました。

すると、今度はさらにハクビシンという動物がそのウジを食べに来ます。

次はカラスがやってきて、ヒナの毛布に使うため死体の毛をむしります。

ちゃんと死体からリサイクルしているんです。

私たちだって、毛布を着て寝ているでしょう。

あれだって動物の毛ですよ。

人間もそうやって助けられています。

だんだん死体は分解されていきますが、夏の死体は肉食動物が食べないため、頭から全身まで骨が残ります。

これを、夏は主に虫たちが処理します。

実は、虫はいろんな分解係、解毒係をしています。

死体は、腐敗が進むと、コレラ菌など健康な生き物にとっては、やっかいな病原菌が出てきます。

感染を未然に防ぐために、ウジがわいて死体を食べてくれるんです。

それがないと、他の生物がみんな病気になってしまいます。

つまり、ハエがいないと、今の素敵な生活はできないんです。

しかし、ハエが増えすぎてもいけませんから、それをコントロールする生物がいっぱいプログラムされているのが自然界なのです。

小説 親鸞・紅玉篇 1月(4)

洛内のほうへ向かって、介が、わき目もふらずに急いでゆくと、寿童丸とその家来たちは早くも彼の姿を見つけて、

「犬が行く、痩せ犬が、尾をたれて行くぞ」

「さっきの広言、何としたぞ」

「腰ぬけっ」

またしても、悪たれや小石を、後ろから浴びせるのであったが、介は宗業のことばを思いだして耳の穴をふさぎながら、

「――堪忍、堪忍、堪忍」

と、口の裡(うち)で唱えて、後ろも見ずに洛中へ急いで行った。

そうして、六条の範綱の館まで、一息に来たが、折わるく範綱は後白河法皇の院の御所へまかり出ていて、まだお退がりにならないという。

院へは、法皇のまわりに、平家の人々がたくさん取り巻いて、閥外の人間を遠ざけるから、範綱などは、めったに伺候(しこう)することはなかったのであるが、近ごろはまた、法皇のお心もちが少し変わって、あまりな平家閥に、眉をひそめられることが多く、ときどき、範綱にもお招きがある。

むろん政治上の事にかかわる範綱ではないから、和歌のお相手や、稀に、御宴(ぎょえん)の端につらなるくらいの程度であった。

「いつも、お帰りは、遅うございますか」

介が、当惑そうに訊くと、館の者が

「お出ましの時は、たいがい遅くなるのが常でございます」

と答えた。

「それは困った」

介は、院の御所へ行って、衛士(えじ)に、取次ぎを頼んでみようと思った。

で、そこを辞して、また駈けだして行くと、途中で、範綱に会った。

「介ではないか」

呼びとめられて、

「おおよい所でした。

六条様、たいへんです。

有範様の御容体がにわかにわるうござりまして、医師薬師も、むずかしいという仰せ。

奥のおん方様も、宗業様も、お枕べに、付ききりです。

すぐ、お越しくださいませ」

「や……有範が」

そんな予感があったように、範綱は、すぐに牛輦(くるま)を引っ返して、日野の里へいそがせた。

病室は、しいんとしていた。

胸さわぎが先に立った。

だが有範はよいあんばいに小康を得て、すこし落ち着いていたのだ。

しかし、医師は、決してよい状態ではないから油断をしてはいけないといった。

そのことばを裏切って、四月になると、有範はたいへん快くなった。

そして自分はいつ死んでも心のこりはないが、こんな激しい社会の中に、生活力のない女や幼子をのこしてゆくだけが心がかりであるなどと、それが冗談に聞こえるくらい明るい顔をしていった。

範綱もまた、戯れのように、

「そんなことは、心配に及ばぬ。

微力でも、わしというものがいるではないか」

といった。

有範は、にことして、うなずいた。

冗談ではなかったのである。

それが生涯中の重大な一言であったのである。

五月にはいると、やがて病が革(あらた)まって、藤原有範は、美しい妻と、二人の子をおいて、帰らない人になってしまった。

(生活力のない女子ども。

――流転闘争の激しい社会には、それのみが心配だ)といった彼の遺言をまもって、範綱は、やがて、未亡人と二人の遺子を、六条の館の方へ引き取って、自分には子のないところから、十八公麿と朝麿は、養子として、院へお届けの手続きをした。