投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

先日、友人の子どもが誕生したということで、病院へ会いに行きました。

先日、友人の子どもが誕生したということで、病院へ会いに行きました。

小さな小さな赤ちゃんでした。

まだ保育器の中にいたので、抱っこが出来なくて残念でしたが、外から保育器の中をのぞくと、呼吸をするたびに小さな胸が力強く大きく上下に動いていて、生命のたくましさを感じました。

病室に入ると、ママになった友人が、笑顔で迎えてくれました。

そこで激動の!?出産話を聞きました。

友人はお腹の赤ちゃんが少し大きいので、

「予定日より前に産んだ方が良いかもね〜」

と、言われていたそうです。

しかし、まだ9か月目に入ったばかりだったので、

「少し体を動かして、徐々に赤ちゃんにサインを送って行こうか!」

と病院で言われていたそうです。

その日から友人は朝、夕と軽めのウォーキングを開始!!

ウォーキングを始めて2日たった朝、お腹に異変を感じて病院へ。

すると、破水していることが判明!!

っしかし、破水した膜がまだ1枚目かもしれないとのことで、絶対安静の指示

(私、知らなかったんですけど、破水する膜って3枚くらいあるらしいですね...)

そのまま入院となり、午後のお昼ご飯をしっかり食べて、しばらく寝てるとまたお腹に異変が・・・

痛みがはしり、すぐに看護師さんへコール!!

「まだ大丈夫よ〜っ」

と、看護師さん。

友人→

「尋常じゃない痛みなんですけど・・・」

看護師さん→

「ちょっと分娩台にのってみるね〜」

友人→

「はい・・・」

分娩台に座った友人を看てくれた助産師さが

『これは大変!!子宮口が全開だがね!!すぐに先生を呼んで!!』

友人→

「・・・・・・・・・・(マジ・・・・・・!?)」

そのまま先生に言われるがまま、

「ヒィ〜ヒィ〜、フゥ〜!!」

しかし、まだきちんとした呼吸法の指導を受けていなかった友人は大パニック!!

過呼吸になり、酸素吸入の機械をつけられ、必死の呼吸・・・!!!

痛みも絶頂!!

呼吸も全力!!

その死闘から約1時間

・・・無事に赤ちゃん誕生!!

産まれてすぐに、想像を絶する痛みと、決死のヒィ〜ヒィ〜フゥ〜連発で、意識を失ったみたいです。

生命の誕生・・・恐るべし!!!

っが!しかし・・・新しい命の誕生にまさる喜びもないですね。

何はともあれ、幸せいっぱいなママと赤ちゃんの表情が見れて、私も幸せな気持ちになりました。

親鸞聖人の十念思想 本願の「乃至十念」(後期)

真宗学では、経文等の解釈を行う場合、

「穏顕」

という表現で、文意には隠れた部分と顕れた部分があると説明します。

したがって、列挙した親鸞聖人の文章には、隠れた部分としてその義をうかがうと、あるいは報恩の義も出てくるのかもしれませんが、少なくとも文章表現の上からは

「報恩」

という言葉は見られませんし、その義も導き出すことは出来ません。

では、どのように述べておられるのでしょうか。

ここで、阿弥陀仏が本願に何を誓っているかが重要になります。

「報恩行」

において重要なことは、私がどのような心で名号を称えるかということで、その称え方が報恩行としての念仏行の是非を分ける目安になります。

けれども、弥陀の本願にはそのように、衆生が称名をする際の称え方については何も誓われていません。

本願に誓われているのは、阿弥陀仏が何をしようとしているのかというその願意のみです。

この阿弥陀仏の願意とは何かという、念仏による救いです。

このことが一番よく表現されている文章が、先に(8)で示した『教行信証』の

「行巻」

「信巻」

に引用されている善導引文です。

ここでは

弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、定で往生を得しむ

という表現になっています。

親鸞聖人は、善導大師のこの文を

「阿弥陀仏が名号を称える者を往生させる」

という意味にとらえておられます。

それは、本願の全体を阿弥陀仏の行為性として解釈しておられるということです。

さらに(7)で示した『末燈鈔』では

弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽にむかへんとちかはせたまひたる…

と述べておられます。

これは、親鸞聖人の書かれたお手紙なのですが、この文もまた弥陀の本願を阿弥陀仏の行為性としてとらえ、阿弥陀仏が衆生に対して何をしているかが示されています。

阿弥陀仏が衆生に対して名号を称えさせ、その名号を称えた者を救うと誓われている。

その働きとして

「乃至十念」

という言葉が出てくるのです。

そうすると、

「乃至十念」

とは何かということが問題になります。

親鸞聖人は、私が名号を称えるということではなく、

『阿弥陀仏が衆生を救うための喚び声。

まさに本願招喚の勅命として、阿弥陀仏が衆生に喚びかける声が、本願に

「乃至十念」

と誓われているのだ』

と、とらえておられます。

つまり

「十念」

というのは阿弥陀仏の声だといわれるのです。

では、阿弥陀仏の十声の喚び声に、どうして

「乃至」

という言葉が添えて誓われているのでしょうか。

そこで

「乃至」

の誓いは何を意味するのかということが、次の問題になります。

その意味について、親鸞聖人は

(1)「乃至十念」

とまふすは、如来のちかひの名号をとなえむことをすすめたまふに、遍数のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。

と『尊号真像銘文』に述べておられます。

この文によれば、

「乃至」

は人間のはからう心を否定する言葉になっています。

阿弥陀仏はなぜ

「十念」に

「乃至」

の語を添えて誓われているかというと、私たちの心は、名号を称えるときに必ずはからいの心を抱くことになるからです。

具体的には、いつ、どのような場所で称えればよいのか。

どれだけの数を称えるべきか。

それに声の大きさはどの程度が良いのか。

また、どのような心持ちで称えればよいのかなど、人間の側では、どうしても念仏を称える時にはからいを持つことになります。

そのはからいの一切を否定している言葉が、まさに

「乃至」

なのです。

いつでも、どこで称えてもよいし、どのような声でも、どのような心でもよいのだということになりますと、この本願の誓いは、人間の心の状態を全く問題にしないで、念仏を称えているその者を救うということが知られます。

それが

「十念」に

「乃至」

という語を添えて誓われた本願の心ということになります。

したがって、第十八願を考える場合は

「十念」

だけを問題にするのではなく、

「乃至十念」

の意味をたずね、阿弥陀仏が衆生を救おうとする願意が、言葉となって阿弥陀仏から衆生に躍動してくる姿が

「乃至十念」

だと理解することが、何よりも大切なのだと言えます。

「死を食べる」(下旬)パックの肉や魚の切り身も死体の一部

自然界だけでなく、東京・新宿・歌舞伎町も観察しています。

歌舞伎町は、夜中の2時でも昼間みたいに明るいんです。

その明かりの下では、人間だけじゃなく、動物さえもがこんな所を歩いているんです。

例えばハト。

ハトは夜寝て昼間活動する動物なのに、町が明るいから夜中に歩いているんです。

今、そういうおかしな状況が東京に生まれていて、ここに日本の人口の一割がひしめいているんです。

その結果、周りを見ればゴミだらけ。

ゴミの中には、まだ食べ残しがいっぱい入っています。

食べ残しの肉も魚も死体の一部です。

切り身だって、パックにしてしまえば死体だって分かりません。

切り刻んであるだけで、死体じゃなくなるような気がしますが、そうじゃない。

食べ残せば、ゴミ袋に入るんです。

ドブネズミなんて、当たり前のようにいます。

みんなこのゴミ袋に穴を開けて鍋の残りからスープに使った肉なんかを食べています。

それは、何もきれいに皿盛りしていなくても、ドブネズミやカラスにとっては最高のごちそうなんです。

でも、これはむしろ食べてくれなきゃ困るんです。

残飯に肉や魚があれば、それは死体の一部ですから、これ以上腐敗したらもっととんでもない病原菌が出てきます。

ドブネズミは、それを未然に防ぐために大至急食べているんです。

しかしその仕組みを知らない人たちは、ドブネズミがいて不潔とか汚いとか言います。

でも、そうじゃない。

間接的な餌付けをしているにも関わらず、そんな風に動物たちを輪部の葉、それだけ人間が無知なんです。

渋谷ハチ公前の交差点では、あれだけたくさんの人が信号待ちをしている中をネズミはお構いなしに活動しています。

ゴミ捨て場にゴミがあふれて、ゴミが植え込みまでいってしまう。

それもドブネズミは食べて処理するんです。

ちょっとスキを作れば、必ずそこに入り込んでくるのがこういう生物です。

そういうネズミは、寿命が尽きると、ドブ川に浮いていることがあります。

以前見た時は4匹浮いていました。

夏にそんなドブ川で撮影するなんて大変ですよ。

食べたものが胃袋から出てきそう。

だからタオルで口をおおって、ガムをかんで臭いを消し、急いで撮影します。

ドブ川は、コンクリートで出来ていますから、海のように牡蠣やアサリ、ハマグリなどの水質を濾過するための生物がいないんです。

そうすると、自然が循環しなくなるんです。

こんな状況が続けば、間違いなく現代社会でコレラのような感染症が出てくると思います。

こんなのが都会では、普通に繰り返されているのです。

だけど、こういう現実を誰も見ようとしていません。

私たちは、みんな死を食べて生きています。

そんな中で食べるということは、縁があって食べさせていただいているのですから、全てに感謝だと思います。

全てがつながり合っている、縁起ですね。

これって、本当に大事な言葉だなあっていつも思いながに写真を撮り続けています。

小説 親鸞・北面乱星 1月(7)

沈面として青じろい面(おもて)に、どこか策士的ふうのある多田蔵人と、北面の侍所に豪の者として聞こえのある近藤右衛門尉との訪れは、この二人の組みあわせを考えただけでも、時節がら、漫然たる用向きでないことは想像されるのであった。

まして、深夜。

その深夜を冒し、雨を冒して来た客の二人は、二人とも、直垂から袴ごし、太刀の緒まで、片袖ずつ、ぐっしょり濡れて坐っていた。

「時に……」

と蔵人は、果たして声をひくめた。

「ちと、折入って、密々にお話し申しとう存ずるが」

「ご心配なく」

と範綱はいった。

「――ここへは、許しなくば下僕の者も参りませぬ。

見らるる通り塗籠の一間、外に声のもれることもない」

「うむ……」

近藤と、うなずきあわせて、

「ほかでもないが、新大納言ま君の御発意で、この月十三日ごろ鹿(しし)ケ(が)谷(たにの)俊(しゅん)寛(かん)僧都(そうず)の庵に、同気の輩(ともがら)がうち集うて、何かと、お談じ申したいとのことであるが、貴公にも、枉(ま)げてもご出席あらるるようにとのお伝えでござる。

――ご都合は、どうお座ろうか」

「さ……」

範綱は、返辞をためらった。

院を中心にして、先ごろから、思いあわされることがないでもない。

相国清盛に対して、瞋恚(しんい)を燃やしておらるるという噂がもっぱらにある。

原因は、相国の嫡子の小松重盛が左大将に、次男の宗盛が右大将に昇官して、徳大寺、花山院の諸卿をも超え、自分の上にも坐ったということが、何としても大納言成親には、虫のおさまらない不平であるらしい。

院の内政はいうまでもなく、叙位、除目のことまで、清盛父子のためにこう自由にされては、やがて、自分たちの官位もいつ剥奪されて、平家の門葉の端くれへ頒(わ)けられてしまうかもしれない――という疑心暗鬼も手つだってくる。

法皇にも、近ごろは、平家のこの専横ぶりを憎く思し召されている容子があると見てとると、成親の謀心は、油がそそがれた。

北面の武士といわれる侍所にも、同じような不平分子がたくさんいる。

また、民衆も平家の顛覆(てんぷく)するのを旱(ひでり)に雲を待つように望んでいる秋(とき)である。

今、策を立てれば、必ず成功するにちがいない。

いわゆる時期到来だ。

こうした考えの人々がいつの間かに院のうちに、秘密結社をつくって、暗躍しているらしいことを、範綱は、あぶない火(ひ)悪戯(いたずら)を見るように察していたので、

(――それだな)とは早くも察していたのであるが、わざと、何も知らない顔をして、

「十三日……」

考えこんでいた。

蔵人は、膝をすすめて、

「ぜひ、お繰りあわせをつけて欲しいが」

「して、当日の集りに見えらるる方々は」

「されば」

と、右衛門尉は、懐をさぐって、燭の下に、連名の一巻をひろげながら、

「――近江中将蓮浄どの、法勝寺の執行(しゅぎょう)俊寛僧都、山城守基兼どの、式部大輔正綱どの、平判官康頼どの、また、新判官資行どのを始めとして、かく申す右衛門尉、ならびに、蔵人行綱」

と、読んだ。

葬儀で、私たち一般会葬者も一緒に声を出してお勤め(読経)をしても良いのですか?

浄土真宗のお勤めは、

「大衆唱和」

を基本としておりますので、僧侶もご門徒の皆さまも一緒に大きな声でお勤めすることは大変素晴らしいことであります。

勤行、お経を読むということは

「仏徳讃嘆」、すなわち仏さまのお徳を讃えるということであります。

そして自分自身もこのみ教えに出遇えたという喜びを実践として表現する姿でもあります。

ですので、何も僧侶だけがお勤めするのではなく、そこに集う一人ひとりが声に出し、みんなでお勤めすることが大切であります。

皆さんにも馴染みのお正信偈。

このお勤めは本願寺の第八代、蓮如上人が、真宗門徒の日常の勤行として、親鸞さまの『正信念仏偈』と『和讃六首』に念仏を加えて拝読することを定められました。

お寺での法要や行事の中には、その法要でのみ用いられる経典や作法など専門に学んでいないと読めないような難しいものもありますので、全てが一緒にとはなかなかまいりませんが、お正信偈を始め、讃仏偈、重誓偈など、

「日常勤行聖典」

(赤色の聖典)に載っている勤行は、どうぞ皆さんも大きな声でご一緒にお勤めいたしましょう。

小説 親鸞・北面乱星 1月(6)

「はての?」

彼女は首をかしげた。

名も告げずに、投げこんで行った文とは、一体誰からよこしたものであろう。

さし当たって、思いあたる人もうかばないように、封を解いた。

燭を寄せて、読み返していたが、やがて、吉光の前は、ほっと嘆息(ためいき)をもらして、つぶやいた。

「まあ、とうとう、鞍馬を下山(おり)てしまわれたか。

――あの稚子ばかりは父御の末路を踏ましとうないと祈っていたが」

範綱は、さしのぞいて、

「誰からじゃ?」

と、たずねた。

「めずらしくも、鞍馬の遮那王から――」

「なんというて?」

「どうして、あれほどきびしい平家の付人の眼を晦(くら)ましたか、関東へ逃れて、身を潜め、今では、奥州(みちのく)の藤原秀衡の懸人(かかりゅうど)になっているとやら……」

「では、噂は嘘ではなかったとみえる。

ひところ、鞍馬の遮那王が逃げたと、やかましい沙汰であったが」

「よもやと疑っていましたが……これを見れば、元服して、名も源九郎義経と改めたと書いてありまする」

「血をあらそえぬもの」

「野心のある豪族に、利用されるのでございましょう。

……それにつけても十八公麿の行末(ゆくすえ)が案じられます。

十八公麿のどこかにも、源氏の血がひそんでいるのではないかと」

「そう取越し苦労はせまいものじゃ。

また、源家の血が呪われた末路を踏むものとばかりは限らぬ。

白いか、紅いか、咲いてみねばわからぬ」

「どうか、平和で、静かで、風にも散らぬ樹となり、花を結ぶよう――」

母性のうれいを眸にこめて、隣の室の隅をながめた。

燈心の光の下に、十八公麿は、眠るのを忘れて、まだ草紙に文字を書いていた。

「麿よ」

「はい」

「もう、お寝(やす)みなさい」

「はい」

「また、あしたにしたがよい」

侍女(こしもと)が来て、彼の衣服を脱がせた。

そして、十八公麿がすなおに帳の蔭の衾(ふすま)にかくれると、間もなくであった。

小侍が、足早に、

「お館様」

と、よんだ。

「なんじゃ」

「新大納言様からのお使者がみえられて、ぜひお目にかかりたいと仰せられます」

「お使者が」

「お通し申しますか」

「この深夜に、成親卿のお使いとは……」

いぶかしげに、考えていたが、

「ま、ともあれ、ご鄭重(ていちょう)に」

「かしこまりました」

小侍が去ると、すぐ立って、範綱は、客室へ出て行った。

客室には、二人の侍が、威儀をただして待っていた。

主の会釈をうけると、

「てまえは、北面の兵衛所に詰めております多田(ただの)蔵人(くろうど)と申す者です」

次席の侍も、それに次いで、おごそかに、

「同じく、北面の武士、近藤右衛門尉師(こんどううえもんじょうもろ)高(たか)と名乗った。

「衾(ふすま)」

=布で作り寝るときにかけた夜具。