真宗学では、経文等の解釈を行う場合、
「穏顕」
という表現で、文意には隠れた部分と顕れた部分があると説明します。
したがって、列挙した親鸞聖人の文章には、隠れた部分としてその義をうかがうと、あるいは報恩の義も出てくるのかもしれませんが、少なくとも文章表現の上からは
「報恩」
という言葉は見られませんし、その義も導き出すことは出来ません。
では、どのように述べておられるのでしょうか。
ここで、阿弥陀仏が本願に何を誓っているかが重要になります。
「報恩行」
において重要なことは、私がどのような心で名号を称えるかということで、その称え方が報恩行としての念仏行の是非を分ける目安になります。
けれども、弥陀の本願にはそのように、衆生が称名をする際の称え方については何も誓われていません。
本願に誓われているのは、阿弥陀仏が何をしようとしているのかというその願意のみです。
この阿弥陀仏の願意とは何かという、念仏による救いです。
このことが一番よく表現されている文章が、先に(8)で示した『教行信証』の
「行巻」
と
「信巻」
に引用されている善導引文です。
ここでは
弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、定で往生を得しむ
という表現になっています。
親鸞聖人は、善導大師のこの文を
「阿弥陀仏が名号を称える者を往生させる」
という意味にとらえておられます。
それは、本願の全体を阿弥陀仏の行為性として解釈しておられるということです。
さらに(7)で示した『末燈鈔』では
弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽にむかへんとちかはせたまひたる…
と述べておられます。
これは、親鸞聖人の書かれたお手紙なのですが、この文もまた弥陀の本願を阿弥陀仏の行為性としてとらえ、阿弥陀仏が衆生に対して何をしているかが示されています。
阿弥陀仏が衆生に対して名号を称えさせ、その名号を称えた者を救うと誓われている。
その働きとして
「乃至十念」
という言葉が出てくるのです。
そうすると、
「乃至十念」
とは何かということが問題になります。
親鸞聖人は、私が名号を称えるということではなく、
『阿弥陀仏が衆生を救うための喚び声。
まさに本願招喚の勅命として、阿弥陀仏が衆生に喚びかける声が、本願に
「乃至十念」
と誓われているのだ』
と、とらえておられます。
つまり
「十念」
というのは阿弥陀仏の声だといわれるのです。
では、阿弥陀仏の十声の喚び声に、どうして
「乃至」
という言葉が添えて誓われているのでしょうか。
そこで
「乃至」
の誓いは何を意味するのかということが、次の問題になります。
その意味について、親鸞聖人は
(1)「乃至十念」
とまふすは、如来のちかひの名号をとなえむことをすすめたまふに、遍数のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。
と『尊号真像銘文』に述べておられます。
この文によれば、
「乃至」
は人間のはからう心を否定する言葉になっています。
阿弥陀仏はなぜ
「十念」に
「乃至」
の語を添えて誓われているかというと、私たちの心は、名号を称えるときに必ずはからいの心を抱くことになるからです。
具体的には、いつ、どのような場所で称えればよいのか。
どれだけの数を称えるべきか。
それに声の大きさはどの程度が良いのか。
また、どのような心持ちで称えればよいのかなど、人間の側では、どうしても念仏を称える時にはからいを持つことになります。
そのはからいの一切を否定している言葉が、まさに
「乃至」
なのです。
いつでも、どこで称えてもよいし、どのような声でも、どのような心でもよいのだということになりますと、この本願の誓いは、人間の心の状態を全く問題にしないで、念仏を称えているその者を救うということが知られます。
それが
「十念」に
「乃至」
という語を添えて誓われた本願の心ということになります。
したがって、第十八願を考える場合は
「十念」
だけを問題にするのではなく、
「乃至十念」
の意味をたずね、阿弥陀仏が衆生を救おうとする願意が、言葉となって阿弥陀仏から衆生に躍動してくる姿が
「乃至十念」
だと理解することが、何よりも大切なのだと言えます。