そこで、宗学で
「十念誓意」
といえば、
「信心正因・称名報恩」
の大前提をもとに、第十八願の十念は、報恩行であるということを論証するために、多くの宗学者により精緻な論考が積み重ねられてきました。
そこで、この一点は動かしてはならないというのが、この論題の意義になります。
つまり
「信心正因・称名報恩」
が宗学の基本思想であって、これを動かすことは出来ないことをこの論題は教えている訳です。
確かに、親鸞聖人は涅槃の真因、すなわち私が仏になる根本の因は、ただ信心にあると言われます。
したがって、伝統の宗学においては
「信心正因・称名報恩」
の義を、少しでも揺るがすことは許されないのです。
そのため、
『本願の「十念」は、称名報恩の義である』
これが、厳然たる宗義の根本であると考えなくてはならない訳です。
さて、ここで重要なことは、
「信心正因・称名報恩」
という宗義は、親鸞聖人の思想全体の結論を示しているということです。
したがって、親鸞聖人の教えの全体をもし一言で言うとするなら、信心が往生の正因であるといって間違いではありません。
けれども同時に、信心正因という親鸞聖人の思想は、親鸞聖人の第十八願の解釈の全体ではないということもはっきりつかんでおく必要があります。
なぜなら、親鸞聖人が第十八願を解釈される場合、この三心と十念は
「信心正因・称名報恩」
であるとは述べておられないからです。
そうしますと、親鸞聖人は第十八願をどのように解釈しておられるかということを改めて問う必要がここに生じます。
それは、本願の
「十念誓意」と、
「信心正因・称名報恩」
の義とは、全く別の問題だということです。
では、親鸞聖人は第十八願をどのように解釈されたのでしょうか。
そのことについて、親鸞聖人のお言葉を通して考えてみたいと思います。
親鸞聖人が第十八願、特に
「乃至十念」
について直接述べておられる箇所は、それほど多くはありません。
それらを示せば、次の通りです。
(1)「乃至十念」
とまふすは、如来のちかひの名号をとなえむことをすすめたまふに、遍数のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。
(「尊号真像銘文」)
(2)「称我名字」
といふは、われ仏になれらむに、わがなをとなへられむとなり。
「下至十声」
といふは、名字をとなへられむこと、しも、とこゑせむものとなり。
下至といふは十声にあまれるもの、一念二念聞名のものを往生にもらさずきらはぬことをあらはししめすとなり。
(「尊号真像銘文」)
(3)「乃至十念」
とちかひたまへり。
すでに十念とちかひたまへるにてしるべし。
一念にかぎらずといふことを、いはむや乃至とちかひたまへり。
称名の遍数のさだまらずといふことを。
この誓願はすなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり。
(「一念多念文意」)
(4)「乃至十念若不生者不取正覚」
といふは、選択本願なり。
この文のこころは、乃至十念のちかひの名号をとなへん人、もしわがくににむまれずば仏にならじとちかひたまへるなり。
乃至はかみしも、おほきすくなき、ちかきとをき、ひさしき、みなおさむることばなり。
多念にこころをとどめ、一念にとどまるこころをやめんがために、未来の衆生をあはれみて、法蔵菩薩かねて願じまします御ちかひなり。
(「唯信鈔文意」)
(5)「…下至十声…」
とまうすは、弥陀の本願には、下至といへるは、下は上に対して、とこゑまでの衆生かならず往生すべしとしらせたまへるなり。
(「唯信鈔文意」)
(6)「…下至十声…」
とまうすは、弥陀の本願はとこゑまでの衆生、みな往生すとしらせむとおぼして、十声とのたまへるなり。
(「唯信鈔文意」)
(7)弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽にむかへんとちかはせたまひたる…。
(「末燈鈔」)
(8)弥陀の本弘誓願は、名号を称すること、下至十声聞等に及ぶまで、定で往生を得しむ…。
(「教行信証」)
以上で、ほぼ全部ではないかと考えられます。
したがって、これが親鸞聖人の
「十念」
の解釈ということになります。
この
「十念」
の解釈の中には
「報恩行」
という言葉もその意味も出てきません。
それは、端的には、親鸞聖人は本願の
「十念」
を報恩行の義には解釈しておられないということです。