投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「自分の老年期を考える」(上旬)人ごとではない

ご講師:松元イソ子さん(鹿児島大学保健学科教授)

老化とは何か。

まず、誰もが年を取るということで、普遍的です。

自分だけは年を取らないと思っていても取ります。

また、自分は老人かというと、そうは思わない。

つまり、私は小学校から今まで私自身をずっと生きてきましたので、いつからおばあちゃんになったかわからないわけです。

そして、老化は連続していますので、結局は人ごとではないと言うますね。

次に、老化とは細胞の一つひとつの働きが弱るということです。

人間の身体は、顕微鏡で見ないとわからない細胞の集まりから出来ています。

この細胞の機能が低下するんですね。

そして、この細胞はストレスを受けて、急に機能が低下する場合があります。

例えば、車にドーンとぶつかる。

このような外圧が加わると、血管という細胞が崩れて血が出ますね。

これは目に見えるストレスです。

でも、これは治ります。

そして、このときの看護というのは何もしないんですよ。

ただ本人の治る力を最大限に発揮できるよう環境を整えてあげるだけなんです。

では、目に見えないストレス、特に一番大事な人を亡くすといった喪失体験はどうするか。

まず三年間、とにかく健康に気をつけて乗り切る。

大事な人を亡くした方は、三年間のうちに三割くらいの方が亡くなられるそうです。

ただ、老化というのは、このような極端なことがなくても徐々に起こってきます。

ではどうしたらいいか。

今までたくさんの人を見てきましたけど、長生きされてる方は、ある程度自分を通せて、アイデンティティーいうか、自分の生き方、自分自身を変えないで通す方ですね。

それが一番いいのかもしれません。

実際介護の必要な方は、ほんの何パーセントです。

まして、介護が必要になったからといって嘆くことはありません。

まず、介護という言葉は、そもそも老年者に対しての言葉として法律で使われていました。

ただ、私はこの言葉がとても好きなんです。

人を介して護る。

人と人とがすごく密着して向かい合っているように思うんです。

だから、介護というのは

「される」

とか

「してあげる」

とかいう関係ではなく、あくまでも対等な関係なんです。

では、私たちはお年寄りをどう見ているか。

「くどくって、物忘れがひどくて、短気で、ブスっとして、聞こえないふりをしてたと思えば時々聞いていて、疑い深くて…」

と、悪いことばかり言ったらきりがありません。

このように思っていますと、どこかにそれが出てしまいます。

今私は、若い人たちに

「老年者観」

ということを、時間をかけて強調してお話しています。

年を取るということは、自分の役割がどんどん変わっていくということです。

夫の役割、妻の役割を無くしたりと…。

そのようなお年寄りをどう観るか、つまり、お年寄りはどう生きたいのかを知ることが大切なんです。

小説 親鸞・紅玉篇 2月(1)

院の御座所をさがってくると。

範綱はすこし眉をひらいた。

法皇の御けしきによっては。

ずいぶん、面をおかしても御諫言(ごかんげん)するつもりであったが、

(さすがは、老練でいらせられる、あの御炯(ごけい)眼(がん)ならば――)と、まずまず、安心して、いわんとすることは、暗示ぐらいな程度にとめて、御簾所(みすどころ)を退がってきたところであった。

院を中心にして、策動し、流言し、暗中飛躍をする無数の政客や、武人や、策士を、法皇はやはり高い御座(みくら)のうえからよく観ておられると、今さら心服するのであった。

もっとも、保元、平治の動乱期にあって、法皇ほど、御苦労もなされ、また、人間の表裏反覆と、烈しい権力の争奪を眺められたお方はない。

そういう法皇を奉じて、まだまだ、衰(すい)兆(ちょう)の見えない平家を廟堂から追い落とそうなどとして、所詮、躍るもの自身の自滅以外、何らの運動となるわけのものではない。

まして、それが私怨と私慾の不平から結ばれた策動であるにおいては、言語に絶した不忠な悪(わる)謀(だく)みである。

法皇の御運命がそういう野望家のために決しられるようなことでもあっては断じてならない。

範綱の意志は、そこに決まっていた。

――だが、それを極言するまでもなく、法皇御自身が、院の内外にうずいている野心家の空気と、野心家の性格とを、ことごとく知り抜かれているようなので、

(このぶんなら――)と、彼は、自分の取越し苦労を、むしろ恥じて、

(くれぐれも、御自重)と、ばかり奏して、あとは、いつもの和歌の話などをして、心までが、はればれとしていた。

南苑(なんえん)の橘には、春のよごれを降りながした雨あがりの陽が強く照りかえしていた。

伶人たちが、院の楽寮(がくりょう)で、楽器をしらべているし、舎人(とねり)たちは、厩舎(うまや)の前にかたまって、白馬に水を飼っていた。

「六条どの」

後ろで呼ぶ者がある。

廻廊の曲がり角に、待っていたように佇んでいた男だった。

「―――おおこれは」

見ると、故少納言信西の息子、浄憲法師という、才子で、人あたりがよくて、そして院のうちの切れ者といわるる人物だった。

時々、歌の詠草などを届けてよこして、評を求めるので、そのつど、歌はみてやるけれど、範綱とは、べつな世界に生きている人間であって、いくら永く知ってはいても、ほんとの知己にはなれないでいる男だった。

にやりと、浄憲は寄ってきた。

何ということもなく、欄へ誘って丸柱に、背をもたせながら、

「何か、御内奏でもあって、御伺候かの?」

と、そろりと探りを入れる。

「いや、相かわらず、歌よみは、歌よりほかにはお相手のしようものうて……」

範綱も、そっと、逃げると、浄憲はねちねちとした眼で、ぶしつけな正視を相手へ与えながら、

「ほ……。

それにしては、だいぶ、お永い話であったの」

「きょうは、御興にいったとみえて――」

「歌の話に、お人ばらいまでせらるるとは、ご入念なことだ」

「…………」

「ときに」

と浄憲は、すり寄ってきた。

そして、範綱の耳のそばで、

「新大納言の君から、なんぞ、そこもとにも、耳うちがあったはずがだが……」

小説 親鸞・北面乱星 1月(10)

見ている者すら面(おもて)をそむけるほど烈しい折檻(せっかん)を加えられたが、曲者は、頑として口をあけなかった。

「主人の名を申せっ」

「…………」

「頼まれたものの名をぬかせ」

「…………」

「何のために、立ち聞きしたっ。

六波羅のまわし者とは分っているが、誰のさしがねで、ここへは忍びこんだか」

「…………」

いくら拷問してみたところで、石にものを訊くようなものであった。

そのうちに、曲者は、うめいたまま、気を失ってしまった。

夜も更けてくるし、大きな声を出しているのは、近隣の館に対しても、考えなければならなかった。

「忌々(いまいま)しいやつ……」

と、右衛門尉は、手をやいたようにつぶやいた。

そして、この曲者を、充分に調べあげるまでは、どこか邸内の仮牢に預かっておいてくれという。

「承知いたしました」

範綱は迷惑した。

しかしこんな縄付を、二人の使者が曳いて歩けないことは分りきっている。

平家の眼の光っている京の往来では――。

「箭四郎、この曲者を、裏庭の納屋へでも入れて、縛っておけ」

「かしこまりました」

気を失った曲者の体を、二、三人して雨の闇へ運んで行くと、右衛門尉は、足を洗って、席へもどった。

そして蔵人とともに、ふたたび、新大納言の大それた謀叛の思いたちを、熱心に説いて、範綱にも加盟をするようにすすめて、やがて、やっと立ち帰った。

範綱は寝所にはいっても、まんじりとも眠られなかった。

自分は自分の分というものを知っている。

不平をいだく北面の武士や、院の政客と聯脈をとって、栄権を夢みるような野望はさらさら持ったことがない。

決して、明るい御世とは思わないけれど、歌人として自然を相手に生きている分には、これでも不足とは思っておらぬし、また、弟の遺した二人の幼子や若後家の将来(ゆくすえ)などを思えば、なおさら自分の進退は自分だけの運命を決しるものではない。

考えは決まっているのである。

そう初めから決している範綱であった。

だが、後白河法皇も、新大納言の私怨(しえん)にひとしい企らみにお心が傾いてするというのは、彼として、自身以上の危惧(きぐ)であった。

万が一にも法皇が御加担となれば、臣として眺めているわけにはゆかないことは当然である。

おんみずから業火の裡(うち)へ、平家膺懲(ようちょう)のお名宣(なのり)をあげて、院の政庁を武人の甲冑で埋めるような事態にでもなったならば、それこそ怖ろしいことである。

(ああ、どうしたものか)悪夢のなかに、範綱はもだえた。

茜いろの都の空にまたしても悪鬼や羅刹(らせつ)のよろこび声が聞こえる時の迫りつつあるのではないかと戦慄した。

夜明けごろ、北の寝屋の奥に、朝麿がむずかるのであろう、幼子の泣き声がしばらく洩れていた。

(そうだ……。

何よりは、法皇のおこころが第一、法皇さえおうごきにならなければ――)

うとうとと眠りぎわに彼は何か心の落着きを見つけていた。

とたんに眠りに入ったのである。

眼がさめたのは従って常よりも遅かった。

雨あがりの陽が強烈に眸を刺し、空は碧(あお)く、五月の若葉は、新鮮であった。

小説 親鸞・北面乱星 1月(9)

一瞬のまをおいて、

(曲者(くせもの)っ――)と、ふたたび遠い所で誰やらの声がした。

ばたばたと屋外(そと)で――今度はやや間近な窓の下あたり、烈しい足音が駈けた、

暗い雨の音が、さあっと、その足尾とを前栽(せんざい)の木立のそよぎと追うらしい。

(曲者っ)つづいて

(お出合いなされっ――)追いつめて、組みついたか、烈しい物音がする。

喚く、打つ、そして

(逃がすなっ)と、声が割れた。

蔵人も、右衛門尉も、また主の範綱も、思わず立ち上がっていた。

そして、廊下の蔀(しとみ)を開け放って、

「何事じゃ」

雨に向かって、範綱がいった。

しかし、それに答える遑(いとま)もないように、木陰や亭(てい)のまわりを、逃げる者と追う者の黒い髪がみだれ合っていた。

そのうちには、蔵人の供人もまじっているらしかった。

いつのまにか、右衛門尉は袴をくくり上げていた。

武人らしく、さっと雨のなかへ躍り出て、築地を越えて出ようとしている曲者をひっ捕らえた。

そして範綱と蔵人のあきれ顔をしている前へ、ずるずると引き摺ってくるのであった。

室内の明かりは、吹きこむ風に消されていた。

範綱は奥へ向って、

「紙燭(ししょく)、紙燭――」

と、どなった。

ふすまや、几帳の蔭から、小さい燈(とも)火(しび)の光が、掌に庇(かば)われながらそこへ運ばれてきた。

雨の打つ階梯(きざはし)の下に、曲者はねじ伏せられている。

右衛門尉は、直垂の胸紐をひき抜いて、曲者の両の手くびを背にまわして縛りつけていた。

「面(おもて)をあげい」

泥土によごれた皮足袋が、曲者の肩を蹴った。

曲者は横に倒れたが、すぐに坐り直して、剛毅な態度をとった。

しかし俯(うつ)向(む)いたきりで、顔を見せないのである。

蔵人は、廂(ひさし)の下にかたまった自分の供人と、この家の召使たちを眺めて、

「こやつは、館の者でござるか」

「いえ、当家には、かような者はおりませぬ」

と、中にまじっていた、箭四郎が答えた。

「すると、外から忍び入ってきたものじゃな」

「察するところ、お後を尾行(つけ)てきて、なお、去りやらず、築地を越えて入りこんだものと思われます」

「立ち聞きしていたか」

「されば、ちょうど、お客間の窓の下あたりに佇んで――」

「うぬっ」

蔵人は、憎そうに、睨(ね)めつけて、

「さては平家の諜者(いぬ)じゃ。

右衛門尉、打ちすえて、口をお開かせなされ」

「諜者か、おのれは」

右衛門尉は、曲者の耳を引っ張っていった。

痛さに顔をしかめた曲者の顔が斜めに長く伸びた。

その顔には誰も見覚えがなかったが、りりしい身支度や度胸をすえこんでいる態度を見ると、決して雑人や凡下の輩ではない。

平家のうちでも、相当な家の郎党にちがいなかった。

「おのれ、誰にたのまれたっ。

いえっ、いわぬかっ――」

右衛門尉のこぶしが、曲者の頭蓋骨を、三つ四つ撲った。

小説 親鸞・北面乱星 1月(8)

院の文官と、北面の武士と、ものものしく連判してあるのである。

範綱は、眼をそらした。

そして蔵人の眼をみると、蔵人は、じっと自分の眼を見つめて、こう秘密をうちあけた以上は、是が非でも加盟させずにはおかない、拒めば即座に左の手によせている太刀にものをいわせても――という殺気のある眸をかがやかしていた。

「なるとほど」

範綱は、すこし後へ退がった。

そのあいだに、彼は思案を決めていた。

「――では僧都の庵にあつまると申しても、歌、猿楽などいたして、半日を、風雅に遊ぼうというわけでもないですな」

「もとより、表面は――そういう態にしてあるが、まことは……」

右衛門尉は、深沈と更けてゆく燭の蔭を、見まわした。

「――まことは、北面の侍ども、また、ただいま読み申した連判の輩が、血をすすりあって、院の法皇を仰ぎ奉り、新大納言の君を盟主として、暴悪な平氏を一挙に、覆(くつがえ)さんと思うのでござる。

洛内にては、人目もあるゆえ、鹿ケ谷へ集まった当日、万端お謀(う)ちあわせする考え。

――ついては、源家に御縁の浅からぬお家であり、わけても、法皇の御信任もふかい貴公のこと、むろん、お拒みのあろうはずはないが、改めて、御加盟のことおすすめに、一党の使者として、わざと、夜中、推参したわけでござる」

蔵人が、一息にいうと、右衛門尉も、

「範綱どの。

ご返辞は――」

と、つめよった。

「………」

眼を閉じて考えている範綱の眉を、二人は左右から射るように見つめた。

返辞によっては、太刀にものをいわせかねない気色であった。

(何と答えたらいいのか?)範綱は、当惑した。

平家がどうあろうと、政治がどう動こうと、自分は、歌人である。

武士でも政客でもない、また高位栄職をのぞんでもいない、歌に文学に、自分の分を守っておればよいのであると、常に、そうした渦中に巻きこまれることは避けるように努めているのだったが、周囲は遂にそれをゆるさないことになってしまった。

一言でも、大事の秘密を聞かれた時は、秘密に与(くみ)すか、秘密に殺されるかどっちか二つに一つを選ばなければならない――。

範綱はそれに迫られて、自身の窮地を感じるとともに、上(かみ)は、法皇の御危険なお立場と、小さくは、奥の北殿に、はや平和に眠ったであろう幼い二人の者と、薄命な弟の若後家の境遇を、考えずにはいられない。

「……ご返辞のこと、一両日、お待ちねがわれまいか」

「ご即答は、できぬとか」

蔵人の手は、太刀をにぎっていた。

ただの握りかたではない、微かなふるえすら現しているのである。

「法皇に仕え奉る身、法皇のおこころのほども臣として――」

いいかけると、

「あいや、六条どの、その儀ならばご懸念はいらぬ。

秘中の秘、いいのこしたが、実は、当時の謀議には、上皇にも、おしのびにて院をお出ましある手筈……」

その時、家の外で、樹の枝でも踏み折ったような音が、ばりっと寂(しず)かな夜気をやぶって、この三人の耳を驚かした。

「やっ?……」

右衛門尉は、太刀のこじりを立てて、中腰になった。

『かぎりなき光をうけてここにあり』(後期)

寺の子ども会に、中国人と韓国人の留学生さんたちに遊びに来てもらった時のことです。

子どもたち一人一人の名前を漢字で書いて、その横に、この名前は中国ではこのようによむ(発音する)、韓国ではこのようによむということをそれぞれ留学生にカタカナやハングルで書いてもらいました。

よみかたって全然違うのですね。

子どもたちも

「えー、全然違う」

と驚いたり、

「おれ、○○っていうんだそ」

と教えてもらったよみかたで名のりあったりしていました。

そこで、今度は私が

「南無阿弥陀仏」

と書いて、

「これはどのようによむのですか」

と聞いてみました。

これまでは全く違うよみかただったので、子どもたちはどんなに変わるんだろうと期待して待っていました。

ところが、中国のよみかたも韓国(朝鮮)のよみかたも、私たち普段発音している

「なもあみだぶつ」

とほとんど変わりませんでした。

「いっしょじゃん」

「変わらないんだ!」

子どもたちはまたまたびっくり。

びっくりしましたが、同じよみかただということがうれしかったようで、留学生と一緒にみんなで

「なもあみだぶつ」

の大合唱をしていました。

インドで生まれた仏教が中国に伝えられて行くときに、中国の僧侶の方々が音写(おんしゃ:そのように発音する文字をあてる)されました。

ですから、

「なもあみだぶつ」

という発音は、もちろん多少の違いはありますが、仏教が生まれたインドから、私たちの日本までつながっているのです。

私たちは

「国」

「民族」

などで壁を作りがちですが、

「なもあみだぶつ」

はその壁を超えて、いろんな時代にいろんな人たちの中で輝いていたのです。

もちろん、子どもたちはそんな歴史のことは知りませんが、国も言葉も違う人たちと一緒に、

「なもあみだぶつ」

と言えたことがうれしかったようです。

そんな経験って、大切かもしれませんね。

「なもあみだぶつ」

とは、訳せば

「かぎりないひかり」

です。

かぎりないひかりですから、分け隔てがありません。

いつでも、どこでも、だれでもそのひかりは等しく照らしてくれます。

いつも子どもたちには、あみだ様はだれでも見ていてくださる仏さまだよとお話していますが、子どもたちにとっての

「だれでも」

の範囲は

「家族」

「ともだち」

などとても身近な世界だったと思います。

でも、そのあみだ様のお名前を国も言葉も違う人たちも自分たちと同じように

「なもあみだぶつ」

といっしょによぶことができたことで、

「だれでも」

とは、身近な人だけでなく、自分の知らないたくさんの人たち、たとえ国が違ってもそうなんだ、あみだ様はみんなのことを見ていてくださるんだということを少し感じることができた時間だったかもしれません。

新しい年が始まりました。

私たちも、わけへだてないあみだ様のおこころを仰ぎ、

「なもあみだぶつ」

お念仏を申しながら、今年も歩んでいきましょう。