小説 親鸞・北面乱星 1月(9)

一瞬のまをおいて、

(曲者(くせもの)っ――)と、ふたたび遠い所で誰やらの声がした。

ばたばたと屋外(そと)で――今度はやや間近な窓の下あたり、烈しい足音が駈けた、

暗い雨の音が、さあっと、その足尾とを前栽(せんざい)の木立のそよぎと追うらしい。

(曲者っ)つづいて

(お出合いなされっ――)追いつめて、組みついたか、烈しい物音がする。

喚く、打つ、そして

(逃がすなっ)と、声が割れた。

蔵人も、右衛門尉も、また主の範綱も、思わず立ち上がっていた。

そして、廊下の蔀(しとみ)を開け放って、

「何事じゃ」

雨に向かって、範綱がいった。

しかし、それに答える遑(いとま)もないように、木陰や亭(てい)のまわりを、逃げる者と追う者の黒い髪がみだれ合っていた。

そのうちには、蔵人の供人もまじっているらしかった。

いつのまにか、右衛門尉は袴をくくり上げていた。

武人らしく、さっと雨のなかへ躍り出て、築地を越えて出ようとしている曲者をひっ捕らえた。

そして範綱と蔵人のあきれ顔をしている前へ、ずるずると引き摺ってくるのであった。

室内の明かりは、吹きこむ風に消されていた。

範綱は奥へ向って、

「紙燭(ししょく)、紙燭――」

と、どなった。

ふすまや、几帳の蔭から、小さい燈(とも)火(しび)の光が、掌に庇(かば)われながらそこへ運ばれてきた。

雨の打つ階梯(きざはし)の下に、曲者はねじ伏せられている。

右衛門尉は、直垂の胸紐をひき抜いて、曲者の両の手くびを背にまわして縛りつけていた。

「面(おもて)をあげい」

泥土によごれた皮足袋が、曲者の肩を蹴った。

曲者は横に倒れたが、すぐに坐り直して、剛毅な態度をとった。

しかし俯(うつ)向(む)いたきりで、顔を見せないのである。

蔵人は、廂(ひさし)の下にかたまった自分の供人と、この家の召使たちを眺めて、

「こやつは、館の者でござるか」

「いえ、当家には、かような者はおりませぬ」

と、中にまじっていた、箭四郎が答えた。

「すると、外から忍び入ってきたものじゃな」

「察するところ、お後を尾行(つけ)てきて、なお、去りやらず、築地を越えて入りこんだものと思われます」

「立ち聞きしていたか」

「されば、ちょうど、お客間の窓の下あたりに佇んで――」

「うぬっ」

蔵人は、憎そうに、睨(ね)めつけて、

「さては平家の諜者(いぬ)じゃ。

右衛門尉、打ちすえて、口をお開かせなされ」

「諜者か、おのれは」

右衛門尉は、曲者の耳を引っ張っていった。

痛さに顔をしかめた曲者の顔が斜めに長く伸びた。

その顔には誰も見覚えがなかったが、りりしい身支度や度胸をすえこんでいる態度を見ると、決して雑人や凡下の輩ではない。

平家のうちでも、相当な家の郎党にちがいなかった。

「おのれ、誰にたのまれたっ。

いえっ、いわぬかっ――」

右衛門尉のこぶしが、曲者の頭蓋骨を、三つ四つ撲った。