一瞬のまをおいて、
(曲者(くせもの)っ――)と、ふたたび遠い所で誰やらの声がした。
ばたばたと屋外(そと)で――今度はやや間近な窓の下あたり、烈しい足音が駈けた、
暗い雨の音が、さあっと、その足尾とを前栽(せんざい)の木立のそよぎと追うらしい。
(曲者っ)つづいて
(お出合いなされっ――)追いつめて、組みついたか、烈しい物音がする。
喚く、打つ、そして
(逃がすなっ)と、声が割れた。
蔵人も、右衛門尉も、また主の範綱も、思わず立ち上がっていた。
そして、廊下の蔀(しとみ)を開け放って、
「何事じゃ」
雨に向かって、範綱がいった。
しかし、それに答える遑(いとま)もないように、木陰や亭(てい)のまわりを、逃げる者と追う者の黒い髪がみだれ合っていた。
そのうちには、蔵人の供人もまじっているらしかった。
いつのまにか、右衛門尉は袴をくくり上げていた。
武人らしく、さっと雨のなかへ躍り出て、築地を越えて出ようとしている曲者をひっ捕らえた。
そして範綱と蔵人のあきれ顔をしている前へ、ずるずると引き摺ってくるのであった。
室内の明かりは、吹きこむ風に消されていた。
範綱は奥へ向って、
「紙燭(ししょく)、紙燭――」
と、どなった。
ふすまや、几帳の蔭から、小さい燈(とも)火(しび)の光が、掌に庇(かば)われながらそこへ運ばれてきた。
雨の打つ階梯(きざはし)の下に、曲者はねじ伏せられている。
右衛門尉は、直垂の胸紐をひき抜いて、曲者の両の手くびを背にまわして縛りつけていた。
「面(おもて)をあげい」
泥土によごれた皮足袋が、曲者の肩を蹴った。
曲者は横に倒れたが、すぐに坐り直して、剛毅な態度をとった。
しかし俯(うつ)向(む)いたきりで、顔を見せないのである。
蔵人は、廂(ひさし)の下にかたまった自分の供人と、この家の召使たちを眺めて、
「こやつは、館の者でござるか」
「いえ、当家には、かような者はおりませぬ」
と、中にまじっていた、箭四郎が答えた。
「すると、外から忍び入ってきたものじゃな」
「察するところ、お後を尾行(つけ)てきて、なお、去りやらず、築地を越えて入りこんだものと思われます」
「立ち聞きしていたか」
「されば、ちょうど、お客間の窓の下あたりに佇んで――」
「うぬっ」
蔵人は、憎そうに、睨(ね)めつけて、
「さては平家の諜者(いぬ)じゃ。
右衛門尉、打ちすえて、口をお開かせなされ」
「諜者か、おのれは」
右衛門尉は、曲者の耳を引っ張っていった。
痛さに顔をしかめた曲者の顔が斜めに長く伸びた。
その顔には誰も見覚えがなかったが、りりしい身支度や度胸をすえこんでいる態度を見ると、決して雑人や凡下の輩ではない。
平家のうちでも、相当な家の郎党にちがいなかった。
「おのれ、誰にたのまれたっ。
いえっ、いわぬかっ――」
右衛門尉のこぶしが、曲者の頭蓋骨を、三つ四つ撲った。