小説 親鸞・北面乱星 1月(10)

見ている者すら面(おもて)をそむけるほど烈しい折檻(せっかん)を加えられたが、曲者は、頑として口をあけなかった。

「主人の名を申せっ」

「…………」

「頼まれたものの名をぬかせ」

「…………」

「何のために、立ち聞きしたっ。

六波羅のまわし者とは分っているが、誰のさしがねで、ここへは忍びこんだか」

「…………」

いくら拷問してみたところで、石にものを訊くようなものであった。

そのうちに、曲者は、うめいたまま、気を失ってしまった。

夜も更けてくるし、大きな声を出しているのは、近隣の館に対しても、考えなければならなかった。

「忌々(いまいま)しいやつ……」

と、右衛門尉は、手をやいたようにつぶやいた。

そして、この曲者を、充分に調べあげるまでは、どこか邸内の仮牢に預かっておいてくれという。

「承知いたしました」

範綱は迷惑した。

しかしこんな縄付を、二人の使者が曳いて歩けないことは分りきっている。

平家の眼の光っている京の往来では――。

「箭四郎、この曲者を、裏庭の納屋へでも入れて、縛っておけ」

「かしこまりました」

気を失った曲者の体を、二、三人して雨の闇へ運んで行くと、右衛門尉は、足を洗って、席へもどった。

そして蔵人とともに、ふたたび、新大納言の大それた謀叛の思いたちを、熱心に説いて、範綱にも加盟をするようにすすめて、やがて、やっと立ち帰った。

範綱は寝所にはいっても、まんじりとも眠られなかった。

自分は自分の分というものを知っている。

不平をいだく北面の武士や、院の政客と聯脈をとって、栄権を夢みるような野望はさらさら持ったことがない。

決して、明るい御世とは思わないけれど、歌人として自然を相手に生きている分には、これでも不足とは思っておらぬし、また、弟の遺した二人の幼子や若後家の将来(ゆくすえ)などを思えば、なおさら自分の進退は自分だけの運命を決しるものではない。

考えは決まっているのである。

そう初めから決している範綱であった。

だが、後白河法皇も、新大納言の私怨(しえん)にひとしい企らみにお心が傾いてするというのは、彼として、自身以上の危惧(きぐ)であった。

万が一にも法皇が御加担となれば、臣として眺めているわけにはゆかないことは当然である。

おんみずから業火の裡(うち)へ、平家膺懲(ようちょう)のお名宣(なのり)をあげて、院の政庁を武人の甲冑で埋めるような事態にでもなったならば、それこそ怖ろしいことである。

(ああ、どうしたものか)悪夢のなかに、範綱はもだえた。

茜いろの都の空にまたしても悪鬼や羅刹(らせつ)のよろこび声が聞こえる時の迫りつつあるのではないかと戦慄した。

夜明けごろ、北の寝屋の奥に、朝麿がむずかるのであろう、幼子の泣き声がしばらく洩れていた。

(そうだ……。

何よりは、法皇のおこころが第一、法皇さえおうごきにならなければ――)

うとうとと眠りぎわに彼は何か心の落着きを見つけていた。

とたんに眠りに入ったのである。

眼がさめたのは従って常よりも遅かった。

雨あがりの陽が強烈に眸を刺し、空は碧(あお)く、五月の若葉は、新鮮であった。