小説 親鸞・紅玉篇 1月(4)

洛内のほうへ向かって、介が、わき目もふらずに急いでゆくと、寿童丸とその家来たちは早くも彼の姿を見つけて、

「犬が行く、痩せ犬が、尾をたれて行くぞ」

「さっきの広言、何としたぞ」

「腰ぬけっ」

またしても、悪たれや小石を、後ろから浴びせるのであったが、介は宗業のことばを思いだして耳の穴をふさぎながら、

「――堪忍、堪忍、堪忍」

と、口の裡(うち)で唱えて、後ろも見ずに洛中へ急いで行った。

そうして、六条の範綱の館まで、一息に来たが、折わるく範綱は後白河法皇の院の御所へまかり出ていて、まだお退がりにならないという。

院へは、法皇のまわりに、平家の人々がたくさん取り巻いて、閥外の人間を遠ざけるから、範綱などは、めったに伺候(しこう)することはなかったのであるが、近ごろはまた、法皇のお心もちが少し変わって、あまりな平家閥に、眉をひそめられることが多く、ときどき、範綱にもお招きがある。

むろん政治上の事にかかわる範綱ではないから、和歌のお相手や、稀に、御宴(ぎょえん)の端につらなるくらいの程度であった。

「いつも、お帰りは、遅うございますか」

介が、当惑そうに訊くと、館の者が

「お出ましの時は、たいがい遅くなるのが常でございます」

と答えた。

「それは困った」

介は、院の御所へ行って、衛士(えじ)に、取次ぎを頼んでみようと思った。

で、そこを辞して、また駈けだして行くと、途中で、範綱に会った。

「介ではないか」

呼びとめられて、

「おおよい所でした。

六条様、たいへんです。

有範様の御容体がにわかにわるうござりまして、医師薬師も、むずかしいという仰せ。

奥のおん方様も、宗業様も、お枕べに、付ききりです。

すぐ、お越しくださいませ」

「や……有範が」

そんな予感があったように、範綱は、すぐに牛輦(くるま)を引っ返して、日野の里へいそがせた。

病室は、しいんとしていた。

胸さわぎが先に立った。

だが有範はよいあんばいに小康を得て、すこし落ち着いていたのだ。

しかし、医師は、決してよい状態ではないから油断をしてはいけないといった。

そのことばを裏切って、四月になると、有範はたいへん快くなった。

そして自分はいつ死んでも心のこりはないが、こんな激しい社会の中に、生活力のない女や幼子をのこしてゆくだけが心がかりであるなどと、それが冗談に聞こえるくらい明るい顔をしていった。

範綱もまた、戯れのように、

「そんなことは、心配に及ばぬ。

微力でも、わしというものがいるではないか」

といった。

有範は、にことして、うなずいた。

冗談ではなかったのである。

それが生涯中の重大な一言であったのである。

五月にはいると、やがて病が革(あらた)まって、藤原有範は、美しい妻と、二人の子をおいて、帰らない人になってしまった。

(生活力のない女子ども。

――流転闘争の激しい社会には、それのみが心配だ)といった彼の遺言をまもって、範綱は、やがて、未亡人と二人の遺子を、六条の館の方へ引き取って、自分には子のないところから、十八公麿と朝麿は、養子として、院へお届けの手続きをした。