「大満読誦の大行」(後期)後席〜大満読誦(だいまんどくじゅ)の大行

さて、今度のお説教は、親鸞聖人が

「大満読誦の行」

というとてつもない大難行をされたという伝説でございます。

親鸞聖人の御一代については、三代目の覚如上人が書き残されたものがたくさん残っております。

それらは、事実でありましょう。

しかし、一方で親鸞聖人の伝説もたくさんあるんですね。

昨今は、いろんな研究によりまして、それは伝説、言い伝えに過ぎないとして、作られたものだと言われる方があります。

しかし、昔のお同行はそういった伝説を素直に聞き、涙をこぼして喜ばれ、味わわれたんですね。

伝説なら伝説で意味があるということです。

なぜなら、私が死んでも伝説なんて生まれません。

伝説が残る、逸話が生まれるというのは、いかにその方が素晴らしい方で、みんなから慕われ、敬われたかということですよ。

ご開山聖人がとても人間業では出来ない大満読誦の行を成し遂げられたということは伝説かもしれません。

でもそれは、聖人がいかにご高徳であられたかということの証になる訳でございます。

〜「大満読誦の大行」あらすじ〜

養和元年3月15日、親鸞聖人は京都の青蓮院という所で出家得度し、当時の名前、松若丸から範宴少納言公と変わります。

比叡山に入られた範宴様は、一心不乱に勉強学問・修行に励まれました。

年若くして、どんどん出世していく範宴様は、普賢菩薩・文殊菩薩の再来とも、釈迦如来のご化身かとも言われていました。

しかし、叡山三千坊と言われる多くの荒法師・大衆は、自分たちのことを棚に上げ、範宴様をひどく妬みました。

そこで彼らは大集会を開き、範宴様を比叡山から排除することを話し合います。

そして範宴様に

「大満読誦の行」

という行をさせることになりました。

それは一日一粒の生米の他には一切口にすることなく、たった一人で百日の間休みなく、比叡山の谷々を回って法華経を唱えて回る断食行。

実践すれば、死に至るであろう荒行でした。

行ずれば死、断れば追放を迫るというのが大衆の思惑でした。

範宴様はそれを受け、26歳で大満読誦の行に入られます。

日がたつにつれ、ボロボロになりながらも進みます。

そして、百日がたったとき、骨と皮とにやせ細り、袈裟衣は原形を留めず、髪も髭も伸び放題。

息絶えの姿になりながらも、範宴様は行法を満足されました。

しかし、範宴様は

「身命を捨てて修行をしても、仏の悟りは見えてこない」

と言われます。

そして、師の慈鎮和尚に対し、これより自力の修行をやめ、末代の人々を含む全ての人が救われる道を探すことを約束されたのでした。

こうした親鸞聖人の命がけのご苦労のおかげさまが、今、私どもが頂いている

「自力を捨てて、他力に帰せよ。

雑行を捨てて弥陀をたのめ。

弥陀の本願ただ一つをしっかりと問い求めていき、頂いていくことによって、間違いなしに、お浄土に参らせていただく」

という、親鸞聖人ご一流のおみのりであります。

こうして聞かせていただいた上は、そりご恩を喜びつつ、日暮らしさせていただくのが浄土真宗の門徒の姿です。

遠い昔の話と思わずに、親鸞聖人が、今の私たち一人ひとりのためにご苦労して下さったと、ちょうだいさせていただくことであります。

このたびのご縁、まずこれにて。