「教行信証」の行と信(9月中期)

では、親鸞聖人が法然聖人と出遇われた時、法然聖人は親鸞聖人に何をなさったのでしょうか。

ただ阿弥陀仏の法を説かれたのみです。

その時、親鸞聖人は、法然聖人の教えをひたすらに聞法しておられます。

これは、六角堂に百日間参籠され、聖徳太子の夢告によって法然聖人に出遇われ、そこからさらに百日間、法然聖人のもとに通われたと伝えられる場面なのですが、この時の親鸞聖人は、法然聖人のもとでは何の行も修してはおられません。

ただ、法然聖人が説かれる教えを聴聞しておられるばかりです。

そして、法然聖人は親鸞聖人に、阿弥陀仏の法を説かれます。

そうしますと、教えは法然聖人から親鸞聖人に向けて語られているのですから、ここでの行為は法然聖人にのみあるといえます。

つまり、行は法然聖人の側にあるのであって、親鸞聖人の側にあるのは聞法のみです。

この場合、親鸞聖人には行がなく聞法のみなのですが、その聞法によって親鸞聖人の心に信が成り立っているのです。

仏道一般は、信じて、行じて、証果を得るという時間の流れの中にあります。

ところが、今の親鸞聖人と法然聖人の関係においては、説法と聞法は同一の時間軸の中にあります。

ある人が説法して、他の人がその話をいつか聞くのではなく、説法している時間と聞法している時間は同時です。

この場合の行と信の関係は、同一人が平坦な道を、時間をかけて歩み、やがて信を獲るというようなものではありません。

そのような時間の流れにあるのではなく、行は法然聖人から親鸞聖人に来ています。

二人は、同じ場所を動かないで対面しておられます。

その空間を飛び越えて、垂直的に法然聖人の行がその瞬間に親鸞聖人に来たり、親鸞聖人を獲信せしめているのです。

この時、法然聖人の側に行があり、親鸞聖人の側に信があるのです。

したがって、この行と信の関係は、同一人ではなく別個の二人の行と信の関係になります。

法然聖人が行をなさり、親鸞聖人が信を獲られるのです。

法然聖人の説法を親鸞聖人は一心に聴聞される。

その説法の中で、ある瞬間、阿弥陀仏の法のすべてが親鸞聖人に

「ハッ」

と分かる。

その瞬間を獲信というのですが、それは阿弥陀仏に摂取されている自分を明らかに知ることを意味します。

法然聖人の説法によって、今まで迷いの闇に閉ざされていた親鸞聖人の心に一瞬にして真実心が開かれた。

この開かれた心が

「証」

です。

このように、行と信と証をとらえますと、この三者は獲信の瞬間、垂直的に重なって並んでしまいます。

法然聖人の説法を聞かれて、親鸞聖人は獲信される。

それは、一声の念仏の真実を聞かれたが故に獲信されたのですが、その一声の念仏が行の一念であり、ここに生じる獲信が信の一念、そしてその信一念の信心歓喜が証果なのです。

このように、行・信・証は、親鸞聖人の思想においては同時に成立するのです。

このような行信証の構造は、自力の仏道では絶対に起こり得ません。

他力なるが故に、阿弥陀仏から来る大行であるからこそ、瞬時にして闇が突き破られるのです。

したがって、この行と信と証には時間の流れはありません。

これが『教行信証』の

「行巻」と

「信巻」と

「証巻」

に見られる行信証の特徴です。

そこで、

「証巻」

における親鸞聖人の思想の特徴をまず考えてみたいと思います。

「行巻」と

「信巻」

の特徴については、後で問題にします。

さて、獲信して証果を得た者は何をするかが、ここで問題になっています。

これは、法然聖人と親鸞聖人の関係でみますと、未信の親鸞聖人が法然聖人の教えを聞かれて獲信されたことは、法然聖人と同じ立場なられたことを意味します。

そして、法然聖人のごとく法を説かれる親鸞聖人がここに生まれています。

親鸞聖人における真の念仏道は、まさしく法然聖人に出遇われた後に始まっているのです。