さつまの真宗禁教史8月(後期)

出水郷における一向宗徒の摘発―その8―

前回にひき続き「出水に於ける一向宗禁制史料」(『日本庶民生活史料集成』第十八巻所収)を意訳して、一向宗徒探索の様子を見ていきます。

  • 一、 寺(源光寺)が焼失しましたので早速普請に取り掛かるところですが、水俣は竹・木がないところですので三月末より竹十八束・縄八束を進上しました。
    縄は先ごろ取り集めました銭の残りで買いました。
    竹の三束は陸路浜潮干をひそかに十九人で運びました。
    残りの竹と縄は船をかりて川筋をのぼりました。
    米の津(出水市)で積込み私が乗船しました。
    一日滞留し夜に帰国いたしました。
  • 一、遠竹休助・田島藤之丞は鍛冶打ち釘を造り進納しました。
  • 一、薩摩の一向宗徒が陣の町の寺(西念寺)付近に造った家は八、九軒あります。
    これを普請したのは七、八年前でした。
    その時、当地より材木・竹その他道具を進上し、また一向宗徒全員が二日ずつ手伝いました。
    大工・木挽は長期間逗留しました。
    造営した家は現在もございます。
  • 一、 右の竹の献納については太田村の郡山甚兵衛・原田藤右衛門にも相談しました。
    太田村から大山甚八が代表で参りました。
    当方が竹・縄を船で運搬予定であることを告げますと、太田村も竹十八束を当方にもち寄りました。
    郡山甚兵衛が同乗したそうです。
    竹を進上することは二人が相談したことに間違いありません。
  • 一、 この四月嘉志久利宮(加紫久利宮=出水市)の御田植祭があり、水俣陣の町の一向寺(西念寺)より智林、知海の二人の坊主が参りました。
    野間原御番所の外のまご山という所で村山弥五右衛門が待機し、二人の坊主が帰路のふりをして参りました。
    そこで村山弥五右衛門が二人を案内して、夜になって万左衛門宅に行き夕飯をご馳走して、それから宿所の村山弥五右衛門宅に送りました。
    多くの男女が待っており終夜説法がありました。
    その時は心ばかりの賽銭を差し上げて、また同じ道を帰りました。