さつまの真宗禁教史9月(前期)

出水郷における一向宗徒の摘発―その9―

前回にひき続き「出水に於ける一向宗禁制史料」(『日本庶民生活史料集成』第十八巻所収)を意訳して一向宗徒探索の様子を見ていきます。

一、 一向宗の頭取が申しますには、再度五月にも坊主を当地に招請しました。

一、 その方法はまず五月朔日・二日に水流喜兵衛が銭縄付肝煎方として水俣源光寺に参り知林・智海に出張を依頼しました。

五月七日、緒方軍弥左衛門が、まご山まで出迎えに参りました。

先月と同じ道を通り水流喜兵衛宅でご馳走し焼酎を出しました。

夜半より終夜説教があり、夜食には赤粥を出しました。

夜明け前になりましたので喜兵衛宅にこれ以上おいておけないので、相談して去る春”召籠“の処分を受けた田島四郎兵衛の下人の六という者の家に、私と緒方軍弥左衛門・吉井十左衛門・喜左衛門が同道し、この家に宿泊しました。

翌八日は一向宗の精進日ですので精進料理で馳走しました。

相伴は弥五右衛門でした。

田島四郎兵衛は弥五右衛門の姉婿です。

そこで二人は、この度の僧侶はわざわざ遠方を招請したので銭を出し合い進納することを相談しました。

一戸に銭三十二文を負担することとして、八日に田島四郎兵衛宅で取り集めました。

約九貫文余りで十貫文に多少不足の金を送りました。

昼飯と夜飯をご馳走し、夜になってからもとの道を吉井十左衛門が肥後国内の袋村(水俣市)まで見送りました。

右のお金は北島太兵衛に百姓の一人が持参したように思います。

右の外にも順次報告いたしますが、余りにも事が多くございますので、まずご用にお役にたつことを書き留めて上申いたします。

この報告書はまだまだ続きますが、紙数の関係上ここで止めておきます。

江戸時代中期の本願寺の門徒の動向と探索の状況を詳細うかがうことができるでしょう。