さつまの真宗禁教史9月(中期)

江戸時代後期の一向宗徒取り締まり

―苛酷を極める門徒への弾圧―

いままでみてきたように、一向宗徒の取締りでまず注目されることは、江戸時代初期(明暦~寛文年間)に、特に兵農分離政策と相まって、士族の一向宗徒が摘発されて身分を百姓に降格されて居住地を移されたことです。

そしてその後、江戸時代中期にも若干の取締りの史料が残されていますが、それは寛保元年(1741)の出水郷における一向宗徒の取締りの状況にみられますように、あまり厳しい弾圧は加えられをかったようです。

また薩摩門徒は、本願寺に取締りの概況を「宗門座の人件費や諸雑費は宗門科人の罰金によって賄われています。そこで必ず毎年五、六郷ずつ一向宗徒の探索が行われますので、一つの郷は二、三十年に一度の法雉をのがれることができません」というのです。

たしかに本願寺門徒への弾圧には地域差・時代差がみられ、罪の軽重にも差がありました。

ここに真宗禁制下にもかかわらず、本願寺の教線が浸透する間隙と若干の余裕があったといえるでしょう。

しかし、天保六年(1853)には薩摩藩全土にわたって一向宗徒の取締りが行われ、摘発された本尊が二千幅、門徒は十四万人にのぼりました(薩摩国諸記)。

そして、先細布講惣代伝右衛門ら四人は、その苛酷を弾圧の様子を次のように生々しく本願寺に言上しています。

わたくしどもの南国諸講で去る天保六年に法難がおこりました。

それは国中全土にわたり根こそぎ摘発するという極めて厳しいものでした。

まず男子の一向宗徒は宗門座(鹿児島と地方の諸郷に設置された宗門取締りのための役所で、奉行一人・横目二人・書記四人・足軽十二人で構成されています)の庭に木馬を持ち出し、割木の上に正座させて膝の上に五、六十斤の石をのせ左右より短い棒で殴打します。

そのために皮肉は破れ足の骨は打ち砕かれてしまいます(薩摩国諸記)。