私たちの日常生活においては本物かそうでなければ偽物という、真と偽しかありません。
ところが、仏教においては「仮」ということが言われています。
仮とは偽ではないものの真ではなく、真に気付かせるための手段として用いられる具体的あり方のことです。
一般には、ものごとを真と偽だけで判断してしまうために、私達は教えを聞くと無意識の内に自分を絶対化して、真の立場にあると錯覚してしまいがちです。
けれども、念仏の教えが真実であるからといって、直ちに念仏を称える私もまた真実だとは言い得ません。
これと同様の真仮の混乱は社会問題においても見られます。
例えば、人を生まれで差別するのは明らかに間違いです。
したがって、部落差別や男女差別の問題を是正しようと取りくむことは正しい行為だといえます。
ただし、ここで留意しなければならないことは、だからといってその問題に取りくんでいる人が常に正しいとは限らないということです。
差別は間違いだと知っていても、そのことに関心を寄せることで初めて自分の中の差別心に気付くことが出来たりします。
このように、私たちは本物(真実)を求めることで、初めて自分自身が偽物(仮・偽)でしかないことに気付かされるのではないでしょうか?