事件で犯人が捕まった時、近所の人が「あの人はいい人で、そんな悪いことをするような人には見えなかった」という言葉をよく聞きます。
みんな普段は「いい人」と言われる人でも縁によって何が飛び出すかはわかりません。
また、それは決して他人事ではありません。
仏教では、実際に行う行動だけではなく、口から出る言葉、そして心で思うことも「業」として捉えます。
ですから、実際には人を殺していなくても、心の中で「あんな人はこの世の中にいなければいいのに」と思うことも、ある意味その人を殺していることになると言えます。
ある教会が火事になった時、礼拝者がその犠牲となり、助かった牧師さんが「本当は礼拝者を先に助けてから逃げるべきだったが、その時私は自分だけ真っ先に逃げ出してしまった。
そういう行動に出た自らの姿を嘆き悲しんだ」という趣旨の本を読んだことがあります。
自分は道徳的な人間で悪いことをしないと思っている人も、縁に触れれば何をするかわかりません。
今はただその悪事をはたらくような縁に触れていないだけにすぎないのです。
そういう人間の根底にある危うさを明らかに照らし、見つめさせ、省みさせるところに仏教の意義があります。