「親鸞聖人の念仏思想」 (5)10月(中期)

 このような実践を頭に描いて、ここで今一度、「私にとって念仏とは何か」ということを問うとみたいと思います。

親鸞聖人が念仏を通して、真実の仏教の行、ということを考えておられるのだとしますと、念仏者であるということは、無常に即した真実の智慧に生きる自分になること、そして真実の慈悲の実践をなす自分になることが、念仏の行為の中から出てこないとならないのです。

ところで、実際的に私たちが念仏とかかわっている時、念仏という行為を通して何を期待しているかを考えてみればよいのです。

そこに見られる自分は、やはり安らかに日常が送れますように、というようなことを願っている自分ではないでしょうか。

「念仏を称えているお陰で、このような平穏に生活が出来ます」とか、「やすらかな思いで日暮らしをさせていただいています」といった言葉を、よく御門徒の方などから聞かされます。

このような心は、念仏を通して現在の自分の幸せを願うと同時に、やがてお浄土へ生まれさせていただいて、永遠の幸福にあずかることを願っている心だということになります。

先に、仏教は「無常・無我・涅槃」という三つの旗印をもつと述べました。

それは、端的にはこのような教えが仏教で、またこの教えがなければ仏教ではないということです。

そうしますと、世俗的な意味で、自分の我を中心とした欲望を満たす教え、欲望に満ちた幸福が永遠に続くということ、欲望の充足こそが安らぎだという思い、このようなことを説く教えは、すべて仏教ではないということになります。

ところが、私たちが念仏に期待する心を開いてみますと、自分自身の身勝手な願いを、念仏を通して仏さまにお願いしていることになってはいないでしょうか。