無学というのは、一般には学問知識がないという意味で使われています。
したがって「無学だ」という言葉は、その事柄を理解するために必要な知識のないこと、ひいては事の本質や道理を心得ないこと、さらにはその事態をわきまえる能力がないことの意味で広く使われています。
特に今日のような学歴社会においては、無学ということは決定的なマイナス評価を示す事柄にもなります。
ところが仏教で「無学」といえば、学ぶべきとされる限りのことは学び尽くして、もはや学ぶべきものを残していない状態、学を究め尽くした境地を意味します。
これに対して、いまだ学ぶべきことを残している状態は「有学」と言われます。
この場合の「学ぶべきこと」とは仏道のことで、自己の迷妄を断絶して仏としての覚りを得ることです。
いまだ学ぶべきことを残している状態を「有学」といい、もはや残していない状態を「無学」というところに、仏教の立場からする明確な人間観があるように思われます。
つまり、人が生きるということは、覚りへの道を歩むことであり、これが得られない間は、人として学ぶべき課題をなお残しているという見方です。
生きているということは、とりもなおさず課題を背負いながら生きているということです。
けれども悩み苦しみつつ、その中で自分のいのちが課題を背負ったものだとはっきり受け取られるところには、仏さまの光が差し込んでいるのではないでしょうか。