『彼岸を仰ぎながら 此岸に生きる』

 彼岸(仏さまの世界)、つまり浄土とは、死ぬことや死後の苦しみが恐ろしくて、それから逃れるために求める世界ではありません。

また、彼岸に対して此岸と言われる私たちのこの世の中は自分の思い通りにならないことばかりに満ちていますが、だからと言って生きている間はそれは仕方のないことだとして不都合なことは我慢したりしているけれども、死後に「極楽」といわれる浄土に生まれることにおいて、楽しみに満ちた生き方を実現したいと願う在り方は、かえって迷いの中に陥る在り方にほかなりません。

本願寺第八世の蓮如上人も

「極楽は楽しいところだと聞いて、生まれたいと願い望む人は、極楽に生まれて仏さまになることはできない」

と注意しておられます。

死ぬことや死後への恐怖、また現実の苦悩から逃げ込む場所として浄土を求めるような生き方は、自分の夢の満たされる世界として浄土を求めているだけのことに過ぎないからです。

 親鸞聖人は、私たちの身の事実を

「地獄一定」

と言われます。

なお、ここで語られる「地獄」とは、どこか遠くの世界のことではなく、

「地」は私の生命の存在の根底を意味し、

「獄」とは「自在を得ず」

ということを意味しますから、私たちが逃れることの出来ない現実世界を「地獄」という言葉で言い表しておられる訳です。

私自身の絶対現実を一点の妥協もなく見つめると、欲望、怒り、そねみ、妬み、腹立ち、愚痴などの煩悩に満ちあふれ、しかもそれらの迷いは臨終の瞬間まで消えることはありません。

そうすると、私の身の事実はまさに

「地獄一定」

といわれるような中を生きているのですが、にもかかわらずその事実にさえも気付かないままに、現実の苦悩と死後の恐怖に縛られ、それからの逃避を模索しているのが偽らざる私の事実だといえます。

浄土の教えに出会い、浄土に目覚めた人は、自らが限りなく深い煩悩の身であることを自覚すると共に、その煩悩の身のままでたしかに生きていく、そういう光を与えられ、人間としての本当の勇気、ほんとうの智慧というものが開かれて行きます。

したがって、この世が辛くて苦しいから逃げ込む世界として彼岸を求めるのではなく、真実の世界として彼岸を仰ぐところに、この苦悩に満ちた此岸を生きる勇気を頂いていく生き方があるのだといえます。