「花をみる花もみている 月をみる月もみている」(上旬) あたり前のこと

======ご講師紹介======

浅井成海さん(龍谷大学名誉教授)

☆ 演題 「花をみる花もみている 月をみる月もみている」

浅井先生は、龍谷大学講師、助教授、教授を経て、平成十六年三月に定年を迎えられ、現在は同大学名誉教授として真宗学の研究を続けておられます。

また、福井県敦賀市にあります浄光寺のご住職でもあられます。

著書に『法然とその門下の教義研究』『浄土教入門』『浄土教入門』『法に遇う人に遇う花に遇う』等、多数ご執筆しておられます。

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 今日は「花をみる花もみている 月をみる月もみている」という題でお話をいたします。

実はノーベル文学賞をもらわれた川端康成さんが、スウェーデンでしたかノルウェーでしたか、賞をもらうと講演をしなければいけないということで、向こうへ言って「美しい日本の私」という題でお話をされました。

そのお話の中に、「月をみる月もみている」という言葉がありまして、それを演題としてお借りいたしました。

「花をみる花もみている」というのは、私がそれに付け加えたものです。

 みなさん方は、仏さまを拝んで下さいますが、仏さまからも拝まれている。

南無阿弥陀仏と仏さまに手を合わせますけれども、それはまた仏さまも拝んで下さっている。

それが仏教の心ですので、念仏の心、あるいは浄土教の心を申し上げたいと考えています。

 そこで、お釈迦さまのことを最初に申し上げたいと思います。

お釈迦さまはカピラという国の王子としてお生まれになりました。

感受性のみずみずしいお方で、小さい時に田畑を耕す農耕際があって。そこへ出かけて行かれた時に、みなさんが畑を耕しておられる。

そうするとミミズが出てきますが、木の上で取りが待っていて、上から降りてきてそれをついばむ、それをご覧になって「弱肉強食」の世界はなんと悲しいことだろうと、たいへん心を痛められたのです。

お釈迦さまはお優しいお方でしたから、たいへん傷つかれたと聞いております。

 ご存知のように、小さいときは、大事に大事に育てられまして、四つの門から遊んで、老人に遇い、病人に遇い、葬列に遇いました。

そして、修行者の行列に遇いました。

心重くなってお城にお帰りになりました。

ですから、仏教は「老」「病」「死」という人生の避けられない課題をどう解決していくか、というところにそのテーマがあるのです。

それは結論ではないのですね。

どのようにその悲しみや苦しみを解決していくか、それをお釈迦さまは最も恵まれた時、最も充実した時にその問題に気付かれて、そしてその道を求めていかれたと、このように私たちは聞いています。

 お釈迦さまは、結婚されてお子さんが生まれられてからは、もう跡継ぎができたということで、安心して城を出られて出家の道に入っていかれました。

六年間ご修行なさってお悟りを開かれたのです。

全てのものは関わり合って存在している。

自分一人で生きているものは誰もいないとお悟りになられたのです。

仏教は難しいと考えている人がいますが、実は当たり前のことをお釈迦さま溶いておられるということになります。

 お釈迦さまはお悟りを開かれた時に、菩提樹の木の下で、長いこと思いを巡らされたそうです。

そして四つの真理を説かれます。

「人生は苦なり」

「苦しみの原因は私が可愛いという我執にあり」

「その我執を砕いてゆく」

そうすると「そこに我にとらわれない考え方や生き方が身についてくる」と、お釈迦さまは私たちに教えてくださいました。

 人生は苦なり。これが結論という訳ではないのです。

そこから、どうその課題を乗り越えていくか。その事実をきちっと見ていこう、逃げないで事実をきちっと見ていこう。

こういうことを仏教は説いているのです。

 お釈迦さまは四つの真理、それは人生を見極めて、明らかに見ていくということです。

それは悲しみ苦しみなのだけれども、仏教は悲しみ苦しみを乗り越えて行く道を説いている。

こういうふうに見ていくことができると思います。

そして行を積んで、だんだん我執が砕かれていきますと頭を下げていく世界が知らされていくということになります。

頭を下げるということは支えられているもの、願われているもの、そういうものに気付いていく世界ということになります。「実るほど 頭の下がる 稲穂かな」という言葉がありますね。

あの実るということは、いろいろなことが身に付いてだんだん頭を下げさせていただく。

その謙虚な姿をおっしゃっておられるのです。