「意地」

 「意地」という言葉は、一般には自分の思うことを通そうとする心という意味に使われています。

日常では、

「意地をはる」

「意地を通す」

「意地になる」

あるいは

「意地悪」

など、「強情」と同義で、どちらかと言えばあまり良くない意味に使われているようです。

「意地」はもともと仏教語で、人間の五官による認識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)の次に来る第六意識(心)のことです。

それは、あらゆるものを成立させる根源になる大地のようなものであるとされています。

人間の心は、ちょうど大地のように、あらゆるものを生み出し、またおさめる無限の可能性を持っています。

しかし、人は人間関係において、どうしても自分中心にものを考えるものです。

その心が日常語でいういわゆる「意地」という感情を生み出し、思うようにならないとき、被害者意識がはたらき、怨みが発生し、そこに争いが生じます。

 心は思い通りにならないということは、人間の歴史が始まって以来の大きな問題であったと思われます。

釈尊も、もちろんこの問題に正面から取り組まれ、人生が思い通りにならないこと、つまり苦の生起する原理を発見されました。

釈尊は心について次のように説かれます。

 遠くさすらい、独り行き、形もなく、洞窟に隠れた、この心を制御する人は、魔王の束縛より脱する。

 仏教は、まさにこの心の制御の道を教えてくれます。

人間の心を分析すると、誰にもある絶えず自己を愛してやまない領域の深層意識から、思い通りにならない心(意地)が生じ、それによって人生のさまざまなトラブルが発生していきます。

そのような紛争をもたらす自分の心をコントロールする方法を追求していくのが仏道です。

その心を制御するのも大地のような心にほかなりません。

 今日、いわゆる意地によってさまざまな紛争が起こっていますが、実は意地という言葉そのものの奥に、いわゆる意地という言葉そのものの奥に、自らの心の制御という紛争解決の鍵が隠されているように思われます。