なぜいま念仏か(2)8月(後期)

 いつの時代でも同じなのかもしれませんが、殊に現代人が惨めな思いをするのは、臨終の時だと言えます。

なぜなら、その臨終の姿が、だんだんと天人の臨終に近づいているからです。

科学の時代とは、いわば

「この世に天国を作ろうとしている」

と言うことができるかもしれません。

人間生活から苦しみの原因となるものすべて排除して、楽しみのみが満ち満ちている地上の楽園を造る。

科学文明が目指している社会とは、まさに人間が自由自在に生き、平等で平和で明るく、健康で豊な楽しい生活です。

けれども、現実の社会では、そのためにかえってあらゆる場で悲惨なゆがみが生じていることも動かしがたいことなのですが、今はそのことはしばらく置くとして、文明社会の表面のみを見ますと、確かに人間生活の醜さ、暗さの面が覆い隠されて、美しく明るく、楽しい生活があふれているかのように見えます。

ある人にとっては、既にレジャーを楽しみ、おいしい食事をし、欲望を満たす思い通りの生活が実現されているように見えなくもありません。

それは、まさに古代の人々が憧れた、天人の生活そのものではないでしょうか。

古代とまで言わなくても、ほんの百年、あるいは五十年前でも、今の私たちが謳歌している生活はその当時のひとびと想像を超えているかもしれません。

 けれども、その欲望に満ちた、思い通りの生活を送っている人にも、やがて老いが来たり、そして死に至る病を患います。

重い病にかかわれば、当然のこととして、現代の私達は病院に入院することになります。

生活に恵まれている人であればあるほど、最もすばらしい最新設備の整った病院に入院し、そこで最先端を行く治療が施されます。

この場合、生命にかかわるほどの重病であれば、本人の意志とはあまり関係なく、さっそく入院させられて、最高の治療を受けることになるはずです。

この時、その病人を入院させた人々に、何か罪の意識が抱かれているでしょうか。

もちろん、家族や友人であれば、その病状を心配するとか、離れて暮らすことの寂しさを感じることは当然です。

けれども、入院させたことに対する罪の意識は、誰ももたないはずです。

なぜなら、自分達が出来る最も良い行動を、その時にとったはずなのですから。