なぜいま念仏か(2)8月(中期)

この人は、既に理性的判断能力を失っています。

そして、その耳にこうささやかれるのです。

「あなたはなぜ自分が不幸に陥っているかわかりますか」

「ご先祖に弔われていない人がおられて、その霊が迷って、今あなたのことを苦しめているのです」

「お墓の方角はいかがですか」

「お墓に傷みたいなものがついていたりとかしませんか」

「過去帳の中に、抜け落ちているご先祖の方がいたりしませんか」

「お墓を建て直しなさい」

「この香合をお仏壇に供えなさい」

「この神さまを一心に信じなさい」

「この神さまを拝めば、きっと家運が良い方向に向いてきますよ」等々。

 もしこの人が、通常の健全な心の時に、これらの言葉がささやかれたとしても、おそらく即座に一笑に付して、「馬鹿らしい」と耳を貸さないのではないでしょうか。

けれども、もし予期しないような不慮の出来事が二度、三度、重なって起こったとします。

あるいは、また体調が崩れ、どのように治療しても、悪化の一途をたどっていくといった場合ではどうでしょうか。

神秘的な占いや、そこから発せられる甘い信仰のささやきに、人はいとも簡単に惑い、その霊力にすがりつこうとしてしまうのではないでしょうか。

 なぜなら、人間の心とはそれほど強くはないからです。

今日の私たちの時代で、迷信をまともに信じようとする人はきわめてまれです。

誰もが、例外なしに迷信よりも科学的な見方を信じているのですが、どうしようもない不安に落ち込んだりしてしまうと、この私を救うという霊力、あるいは神秘的な力にしがみついて、なんとしても助かりたいと願うことになりがちです。

まさに

「溺れる者はワラをも掴む」

と言われますが、ワラは掴んでももがくだけで、沈むのです。

迷信的あり方に陥っているその姿こそ、溺れてワラを掴んでいる者の姿そのものであるといわねばなりません。

 それは、臨終における、どうしようなない最悪の状態だともいうことができます。

そこでは、科学の力も迷信の力も、全く役には立たないのです。

けれども、この人は科学か迷信のどちらかにしか頼れないために、そのいずれかに必死にしがみつくのですが、体調は悪化の一途をたどります。

しかもこの人は、現代人特有の

「苦悩に耐えられない心」

しか持っていません。

このどこまでも深い苦悩に落ち込んで行く人に、果たして「救い」はあるのでしょうか。