なぜいま念仏か(3)9月(後期)

自分は、今まさに明日をもしれないような状態に置かれています。

ほんの少し前まで、自分の人生はバラ色そのもので、愉快に平和で充実した日々を送っていたのですが、今その一切が断ち切られて、ただ一人寒々とした思いの中でベッドに伏しています。

あらゆる治療が施されながら、心身ともに一日一日衰えて行きます。

身体中が激しい痛みに苛まれているのですが、これまで自分は苦に耐えるという経験をしていません。

なぜなら、何でも思うことがかなえられてきたのですから。

けれども、今は全くその逆で、何ひとつ思いがかなえられないのです。

自分自身は、逆境に耐える力を全くといっていいほど持っていないにもかかわらず、最悪の惨めな姿で一切の苦痛に耐えなくてはならないのです。

それは、どうしようもない悲劇的な状況だとしかいいようがありません。

しかも周囲の人々はこの私の苦痛を、他人事として眺めるのみです。

かつての自分がそうであったように、周囲の健康な人々は死そのものには無関心で、いたって明るく人生の楽しみを満喫しているのです。

このように、現代人の人生を眺めてみますと、現代人のほとんどは「生」という面からのみ、自分の人生をとらえているのではないかと思われます。

誰でも、自分自身の最後は死に至るのだということは知っています。

けれども、その死そのものを「生」のなかでとらえているのです。

なぜなら現代人の目にふれる人生の在り方は、いかに快適で明るく楽しく、臨終の瞬間まで充実した人生を送れるか、といった処世術のみだからです。

どこまでも欲望を満たすためのみの人生論が語られているのです、それは「死」そのものまで、欲望を満たす方向で語られているのだといえます。

老後をいかに健康で充実して過ごすか、そしてその向こうに安らかに死を見ていると言えるのです。

もちろんこれは誰もが抱いている人間の願いであって、このような願いを持たない人などいないというべきかもしれません。