なぜいま念仏か(3)9月(中期)

そこで、寿命が終わりに近づいた天人は、天国の道理として唯ひとり誰の目にもふれないところに移され、今までの清らかな美しさはみるみる穢れた醜い姿に転じ、遂には天国から追放されることになってしまうのです。

その瞬間、天人は楽しみの絶頂から苦悩のどん底へと転落して行きます。

まさに、天国から地獄へということですが、そのときに味わう天人の苦悩は、地獄において受けるいかなる苦痛よりもなお深いとされています。

このように、天人には無限の苦悩を受けるべき要因が残っているが故に、未だ迷いの境涯だとされているのです。

さて、ここで現代の臨終の姿に今一度目を移してみましょう。

現代人の人生の様相も、この天人の姿に近付きつつあるように思われます。

豊かで、楽しく快適な暮らしを送りながら、ある日突然のその人に死に至る病が襲いかかります。

そうなると、その人は近代設備の整った病室にただ一人隔離されることになります。

けれども、そこで悶えている姿こそ、天人の死に行く姿そのものだと言えはしないでしょうか。

私たちの人生において、最も辛く悲しく惨めな時が臨終です。

しかも現代の人々は、過去世において誰もが経験しなかったような、まことに惨めな臨終を迎えようとしているのです。

現代社会の目指す方向は、人間の欲望の充足に他なりません。

心に嫌だなと感じる、苦の原因になる一切の事柄を取り除いて、これが欲しいと望まれる、快適で便利で豊かで楽しい生き方を次々に実現させています。

そのために、私たちの目に映る現代社会は、非常に美しく明るく装っているといえます。

その一方、惨めな死の姿を目にすることはほとんどありません。

また、他人の臨終を見る限り、それがまさしく悲惨だとは、どうしても思えません。

なぜなら、現代医学の粋を集めた病院で、完全な看護が施されているのですから。

けれども、いざ自分がその臨終の場に置かれると、事態は全く逆転しまうことになるのです。