意識がはっきりとせず、実行すべきことができなかったとき、
「前後不覚に陥っていた」
と他人に話すことがあります。
また、決して見過ごしてはならないときに、一瞬の油断から
「不覚にも」
見過ごしてしまうということもあります。
このように、日常でいう不覚は、覚えがない、覚えていないという意味で使用しているようです。
仏教でいう「不覚」とは、仏の智慧に目覚めないこと、「無明」を意味する言葉です。
ちょうど、方角に迷ってしまい、進むべき方向が東であるにもかかわらず、西へ向かってしまうことがあるように、方角を立てることにより方向を取り違えてしまうはたらきを無明といいます。
私たちは、自分の失敗を悔やんだり、反省しようとする心を持ち合わせてはいます。
ところが、不覚にも失敗したのは偶然で、失敗するはずのない自分こそが本当の自分だと考えてしまいます。
仏教は、それを危ないと教えてくれます。
いつ失敗しても不思議ではない人生であるのに、物事をとらえる方向を取り違えてしまっているからです。
大きな決断を迫られたとき
「覚悟は出来ている」
などということがあります。
覚悟の理由やその行方ではなく、そう決断しようとしている自己自身を見据えさせるものが、無明の闇を破った仏の智慧です。