『張りすぎた糸は すぐ切れる 柔軟心(にゅうなんしん)』

3月まで放送されていたNHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」。

ご覧になっていた方も多いのではないでしょうか。

落語の世界をモチーフとしたドラマで、その中でも特に「愛宕山」の一節はドラマの本筋として頻繁に引用されました。

『野辺へ出てまいりますと春先のことで、

空にはひばりがピーチクパーチクさえずって、下には蓮華、タンポポの花盛り。

陽炎がこう萌え立ちまして、(中略)〜その道中の、陽気なこと』

 この一節は幾度となくドラマの中に登場し、そしてその都度、お話の情景を頭に思い浮かべることでした。

思うに今、頭に思い描く、深く物事を心に思案するといった場面が生活の中に少なくなってきたようにも思われます。

テレビやパソコンが普及した今日、私たちの目には様々な情景を映像として見ることが出来ます。

しかし、落語を始め「聞く」という行為には、聞く側の想像力、そして何よりもその真意を受け伝えていく姿勢が求められてきます。

 テレビドラマでありながら、しかしその一方で聞くということ、目には映らないけれども、いろんなことに想いを馳せるといった、人間としての心のありようを、このドラマが私たちに問うていたように今振り返ることです。

 今月の言葉の最後に「柔軟心」とあります。

これは、仏さまの心を言い表した言葉です。

何となくやわらかく、やさしく、そしてあったかくなるような仏さまの広大なお慈悲を表しているような気もします。

けれども、この仏さまの柔軟心というお心は、私たちが安易に思いはすれるようなものではなく

「全てを平等に受け入れる心」

「自他の区別を超えた心」

を「柔軟心」と呼ぶのだと教えられています。

 私たちは、常に自我の心に執われ、自分の都合で相手を選び、自分の物差しで物事も考えてしまいがちです。

なかなか、全てを平等にとらえることは難しいものです。

知っていながら、現実にはそうはなれない、そのまま受け入れられない自分であることを、

「柔軟心」

を通して思い知らされます。

この言葉に込められた、私たちの生きざまに対する厳しい問いかけに耳を傾けられる、そういう心を忘れない生き方でありたいと思うことです。