「荒凡夫・一茶」(下旬) 「生き物感覚」あっての本能、そして自由

 「蚤(のみ)どもが さぞ夜永(よなが)だろ 淋しかろ」

日本人を代表する心は、この句にある。

そしてこの句は仏教の影響から生まれたと書いてあります。

その仏教とは浄土真宗のことを指しているんですが、ブライス氏自身は禅宗でした。

禅の影響だと書きたくても、実際はそうでないことを知っていましたから、書けません。

そこで、仏教という漠然とした表現にしているんですね。

 これは書いてあることを読めば、よくわかります。

日本を愛していたからこそ、わかるんですね。

そして私は浄土真宗の、特に庶民の心に及ぼす影響の大きさを改めて承知した次第でした。

一茶と浄土真宗の結びつきをもっと勉強しなきゃならないと思っています。

 それからもう一つ、人間関係にもその生き物感覚、アニミストの感覚がはたらいています。

一茶の句の中には、屁などのびろうな言葉も出てきますが、彼の場合はほとんど汚くないんです。

今でもそういう言葉を使う人はいますが、みんな薄汚い句が多いです。

 でも、一茶の句には、こういう言葉を使っても薄汚い句は一つもない。

むしろ、どれもいのちを感じますし、親しみを覚えます。

これが一茶の天性ですね。

 15歳まで田舎で農業をやって土に親しんだということも関係していると思います。

それから、お父さんが熱心な浄土真宗の信者だったということも影響しているんでしょうね。

そのようにして、彼の生涯を一貫して「生き物感覚」が存在していた訳です。

 これがあるから

「煩悩具足、五欲兼備の男」

がそのまま自由に生きても、人さまの害になるようなことはしないんです。

 自分の欲はしっかりとある。

本能のままに従って、その自由さは担保しておきながら、人には絶対に迷惑をかけない。

この本物で生きていくということが、非常に大事なことだと思います。

 だから、自由というのはそういうものでなければならないということを、私は一茶を介して各所で話して歩いています。

 本能はいけないと言って、あんまり抑制するのは良くないんです。

必ず何か事件が起ります。

多少の欲は認めてやらないとダメなんですよ。

その本能の欲は解放しなきゃなりません。

その解放の仕方の中に、アニミストとしての心構えが必要になってきます。

 いいえ、心構えといったらダメなんですね。

もうそんな道徳的な言い方をするもんじゃないんです。

「おのずからなる」。

そういうものでないといけないんです。

 生き物感覚あっての本能、生き物感覚あっての自由であると私は思います。

これが俳人・小林一茶から、私が勉強していることでございます。