「荒凡夫・一茶」(中旬) やれ打つな 蠅(はえ)が手を摺(す)り 足をする

彼はその後の5年間を、自分の思うままに振る舞って死んでいきました。

そこで疑問に思うのは、そんなに愚のかたまりの男が自由に生きたら、人の迷惑になるんじゃないかということですよね。

だから「自由」ということが問題になってくるわけです。

自由というのは、人を殺したり傷つけたりする自由じゃないんです。

 その辺のけじめをつけるのは難しいですね。

それで私は一茶の俳句をずっと見直しました。

そうしたら、そのことがわかりました。

それが「生き物感覚」です。

つまり、一茶の俳句を見ますと、いのちに対して非常にデリケートな感覚があるんです。

 例えば、彼は歯が丈夫だったんですが、それでも49歳の頃には歯が揺らいできました。

そのときに作った句で

「花芥子(はなげし)の ふはつくやうな 前歯かな」

という句があります。

ハナゲシというのはケシの花です。

俳句ではケシの花をハナゲシとも言います。

前歯がふわふわしている感じが、ケシの花のようだと言っているんですね。

 自分の歯が揺らいできて、

「ああケシの花びらが揺らいでいるようだ」

という、この感覚は何ともいえませんね。

これを私は「生き物感覚」と言っています。

 彼にとっちゃケシの花も自分も同じ生き物なんですよ。

同じ生き物同士の感覚でいますから、自分の歯が揺らぐということが、ケシの花が揺らいでいるのと同じだという感覚で素直に受け止めるんですね。

この感覚がすごいと思うんです。

 それから

「やれ打つな 蠅が手を摺り 足をする」

という句があります。

ハエは4本の足の先で物を確かめるんだそうです。

例えば、刺身のところに止まったら、これは刺身だとわかるというように、ハエは足の先の感覚をいつも磨いていないといけない訳です。

だから暇があれば足の先を磨くんですね。

 それで、一茶の目の前にハエが止まって、足の先をすり合わせ始めたのに対して、

「ハエが今いい気持ちで、体の掃除をしているんだから、こんなのを打つなよ」

と、そういう気持ちなんですね。

決して慈悲心だとかじゃなくて、ハエと自分との間の生きた交流があるから、そういう句が出来る。

私はこれが一茶の本体だとわかってきて、この感覚はすごいと思いました。

 それからR.H.ブライスという戦後活躍したイギリス人の学者がいます。

この人は日本が大好きな人で、彼が出した「ハイク」という英文の中で、松尾芭蕉・与謝蕪村・小林一茶・正岡子規。

この4人の俳句を合計で千数百英訳しています。

 その中に

「蚤(のみ)どもが さぞ夜永(よなが)だろ 淋しかろ」

という一茶の句があります。

ノミよ、お前たちも夜長をもてあまして寂しいんじゃないか。

おれもそうなんだよ、という句です。

 この句をブライス氏がともて褒めましてね。

それであとがきに

「最も日本人的な心で、人間味豊な人だ」

と書いています。