「親鸞聖人の他力思想」3月(中期)

そこで

「本願」

「他力」

の関係は、まず阿弥陀仏は本願に何を誓われているのかというと

「念仏する衆生を必ず往生せしめる」

ということです。

では、他力とは何かということになりますと、その

「本願を信じて念仏する衆生を必ず往生せしめるというはたらき」

になります。

本願は、念仏する者を救う。

それに対して他力は、本願を信じ念仏する者を救うはたらきそのもの、その本願力が他力です。

そういうことからしますと、親鸞聖人の思想においては、自力とか他力とか、信心とか念仏とか、これら全ては

「阿弥陀仏の浄土に往生して仏になろうとする行業として論じられている」

のであって、それ以外の事柄について述べられているのではないことを知っておく必要があります。

そこで、改めて私たちと阿弥陀仏との関係を問い返していただきたく思います。

なぜ、この他力本願の思想に、私たちはそれほど関心を持とうとしないのでしょうか。

阿弥陀仏が

「念仏を称えなさい、必ず救います」

という本願を建てておられますと聞くと、それを聞いた私たちは本来なら大いに歓喜しなければならないはずです。

私が願うに先立って、私を救うと阿弥陀仏さまが誓って下さっておられるのですから。

けれども、現実には大半の人はそのことを聞いても、特に喜びがわいてくることはありません。

つまり、阿弥陀仏の本願と私たちの心は、今かみあっていない、触れ合っていないという状態にあるのだといえます。

では、なぜ

「念仏を称えよ、救う」

という言葉に、私たちは喜びを感じないのでしょうか。

阿弥陀仏が

「あなたを浄土に生まれさせる」

という誓いの言葉を、私たちは聞き学んでいるにもかかわらず、

「浄土はどこにあるのだろうか」

というような疑問は生じても、自分が

「本当に浄土に生まれるんだ」

という喜びが、自分自身の全体からわきおこってくることはありません。

ここで、私たちの生き方を問い、浄土真宗の教えと自分たちの人生を重ねてみることにします。

そうしますと、私たちの今を生きるという問題と、阿弥陀仏の救いとが、ほとんど重ならないのではないかということが思われます。

今を生きるさまざまな思いの中で、残念ながらこの世で念仏が尊いのだという実感がなかなかわいてこないのです。

念仏の喜びがでてこないということは、自分の生き方と念仏が関係していないということに他なりません。

それは、私たちが他力ということとまったく関係なく、浄土ということにも関心を持たないで、阿弥陀仏の本願や阿弥陀仏の救いをまったく問題にしない在り方で生きているということです。

したがって、ただ手を合わせて拝んでいるだけで、阿弥陀仏に対する宗教的な意識はほとんどないようなところから、信仰心が生まれてくることは極めて困難だし思われます。