『逝去』

葬儀における弔辞や弔電で

「ご逝去を悼み謹んでお悔やみ申し上げます」

(浄土真宗では、「ご冥福をお祈りします」とか

「天国で安らかにお眠り下さい」とはいいません)

と、人の死を悼む尊敬語として使われています。

人の死をどのように考えるかについては、死生観や宗教の違いによってさまざまです。

死はすべての人に例外なく訪れる事柄ですが、経験して実証することのできない事柄でもあるため、死についてのとらえかたは、死後の世界を幻想する神秘主義に陥るか、そうでなければ

「死んでからのことは、死んでみないとわからない」

という実証主義に陥って思考停止するかのどちらかになります。

一時、

「臨死体験」

が流行語のようになったことがありました。

されは、美しく安らかな死後を連想されるものとして、人々に死後についての不安を取り除く役割を果たすかのように見えましたが、所詮は死そのものではなく、神秘主義からも実証主義からも見放され、一過性のものとして終わったようです。

死に対して、何らかの意味を持たせたいのが人間のはからいのなせるわざですが、それは

「死を再生への出発点である」

とか、

「何らかの役に立つ死でありたい」

とかさまざまです。

これに対して仏教では、死とは

「逝去」

です。

逝去のことを

「入滅」

とも

「涅槃」

ともいいます。

無量無数の因縁によって、ただ今の瞬間の命が生かされているという縁起の事実への目覚めを基本とする仏教では、ただ今の私を私たらしめていたすべての因縁が、過ぎ去って(逝去して)寂滅したのが死なのです。

入滅(滅に入る)とは、私を私たらしめていたすべての因縁が滅したということです。

また涅槃とは消滅という意味であり、因縁によって生死の世界に生きた命が寂滅したことを指す言葉です。

仏教では、死とは岸辺に打ち上げられた波が深くて広く果てしない大海に帰っていくように、静かな本来の世界に帰っていくことです。

涅槃である死は寂静であり、それは意味付けを必要としない世界です。

この縁起の事実への目覚めにおいて、神秘主義も実証主義も超えた

「逝去」

という死後の在り方が、自然なありのままの世界である浄土として明らかになるのです。