「念仏の教えと現代」1月(前期)

そうすると、私たちはここで、そのように逃れられない惨めな最後の場をこの人生の中に持っているのだということを、はっきりと見つめる心を持つ必要が生じます。

一方では、人生のあり方を明るくとらえ、希望に生きるあり方を教えることも重要なのですが、その明るく…と教えているじんせいの裏側に、非常に暗い自分の姿があるのだということを、もう一つ見つめさせる教えが必要になるのです。

もし惨めな死の問題を考える心を持たなかったとすると、かえって非常にみじめになってしまうのではないかと思われるのです。

なぜなら、臨終において一番重要なことは、そのような最悪の惨めな状態になった時には、これは科学の力も、あるいは迷信の力も、その人にとって何の役にも立たなくなるからです。

科学的に一生懸命治療をしても、その治療の限界を越えてしまうと、科学の力は全く役に立たなくなってしまいます。

どんなに手を尽くしても、死んでいく自分は、死に至るしか道はないからです。

このような場合、その人はもはや科学の力にたよることはできません。

ただ自分自身がその惨めな自分の姿を見つめながら死んでいくより他ないのです。

しかも自身が黙ってその姿に耐えて死んでいかなくてはなりません。

ところが、その自分の心は今まで、苦ということに全く耐えることをしなかった自分です。

苦しみや痛みに耐える努力をせず、勝手気ままに生きてきた人間が、最終的に耐えることのできない悲惨な目に会って、自分がその悲惨さそのものを耐えて、やがて死の中に落ち込んでいかなくてはならない、そういう自分の姿がここに残っているのです。

もちろん、このように時には、その人にとって迷信など何の役にも立ちません。

人間にとって臨終の時には、科学の力も迷信の力も、全く役に立たなくなってしまうことになるのではないかと思われます。

そうしますと、ここで私たちにとって重要なことは、生の面からのみ人生を見るのではなく、このように自分にはどうしようもない死という姿が必ずあるのだという、死という面からもう一つの自分を見る目、つまり死という方向から人生を見るという見方を持っていなければならないということです。

この点を究極的に教えているのが、真実の宗教だといえます。

このような意味で、私たちはあくまでも真実の宗教に出遇うということの必要性がここで重視されることになるのです。