「念仏の教えと現代」12月(後期)

この点を非常にはっきり教えているのが、仏教の六道輪廻の教えの中に見られる天人の姿だということになります。

天人というのは、私たちの人間社会でいうと、一番上流に位置する人々に例えられますが、実際はそれ以上の無限の幸福を得ている人々だと考えられます。

天人の暮らしは非常に楽しく、そして清らかで美しい。

何の憂いもなく、全く幸福のみの生活の中にあります。

けれども、その天人にも唯一の欠点があります。

それは、天人にもみじめな死、臨終の時があるということです。

では、天人はどのようなみじめな死を迎えるかというと、今まで楽しく幸福に暮らしていた天人は、死を迎える時になると自分一人だけが誰にも知られないように天のはずれに連れて行かれます。

これは、天の掟なのですが、天は清浄で美しさのみの世界ですから、いかなる穢れも存在しません。

ということは、他の天人の死を見ることが出来ないのです。

ただ、死ということがわかるのは、自分自身が自分の死に至る時、その死を見るときだけです。

ただ一人、天のはずれにたたずむと、その死の間際に、今までの美しい姿が、それこそ見ることの出来ないような、ひどい惨めな姿に変化していって、ついには天から放り出されてしまうことになります。

これが天人の臨終の姿なのですが、その時に天人が味わう苦痛は、地獄の奥底にいる者の苦悩よりも、はるかに痛ましい心になるといわれます。

この故に、仏教では天にはやはり迷いの中にあるといわれることになるのです。

さてここで、この天人の臨終と、現代人の一番素晴しい医療を受けることが可能な上流社会に位置している人で、生前は自分の思い通りに人生を歩むことが出来た、何でも思いのままになった、という人々の臨終とを重ねて考えてみます。

まさに、思い通りに素晴しい人生を過ごすことが出来た人が、いま年老いて重篤な病を患うことになったとします。

重い病にかかったことによって、それまでの自分の思い通りの生活は、そこで頓挫してしまうことになります。

そして、周囲の人々は、その人のために直ちに素晴しい病院に入院させて、医学の粋を集めた治療を受けさせます。

そうなると、本人は否応なしに個室に入れられて、いろいろな医療器具によって肉体が包まれてしまいます。

しかも、その自分の肉体は回復するのではなくて、むしろ一日一日とだんだん弱っていくばかりで、見舞いきてくれる人はまた華やかな外の世界に帰って行くので、自分だけが取り残されるという悲哀を味わい、そして最後には一人死んで行くことになります。

これを周囲から客観的に眺めると、あの人は立派な病室に入って高度な治療を受けているということになるのですが、本人の思いからすると、これはまさに天人が感じる臨終の惨めさを味わいながらの死とまるで同じいうことになるのではないかと思われます。