「念仏の教えと現代」1月(後期)

そうすると、ここで

「宗教」

ということをひとまず度外視して、理想的な人生を追い求めていくと、その理想的な人生と、真実の宗教が人々に語りかけている人生とが、ここで全く重なり合ってしまうことになることに気付かされます。

真実の宗教は何を教えているかというと、先ず心の安らぎを説きます。

しかも、その心の安らぎを得るために、正しい生活、正しい道、人間としての善なる道をなせということを勧めます。

しかもその行為は、決して理性的な判断を狂わせるものではありません。

このような三つの柱を正しい宗教は持っていると言えます。

一方、現代を生きる私たちが求めている理想的な人生も、理性に即した生き方に基づく幸福な日々であり、それは人間としての正しさを失うことなく、しかも心の安らぎに満ちたものだということになると、真実の宗教が説くあり方と私たちが求めている幸福な人生の方向性は全く矛盾していないということが出来ます。

そこで、このような真実の宗教、あるいは人々が理想とする人生論と、親鸞聖人が求められた教えとが、いったいどのように関係するかということについて考えてみます。

親鸞聖人は、人間にとっての心の安らぎをどのように見られたのでしょうか。

心の安らぎ、これは人間にとって案外簡単に得ることが出来るものです。

それは、平常心の時には、努力をすれば誰でも安らかな心を作ることができるということです。

例えば、お寺の本堂に参って、静かに心を鎮め、姿勢を正し、呼吸を整えてひとつのことを念じる。

南無阿弥陀仏の姿を心で想い浮かべてもよいし、称名念仏をしてもよいのですが、そのような心をしばらく持続させると、いとも簡単に心の安らぎを得ることが出来るのです。

このように、人間は静かな心になって気持ちのよい状態を作ることは出来るのですが、けれどもそれが可能なのはその時の自分がそのような心を作ることができる、恵まれた状態に置かれている時だけです。

具体的には、健康であって、時間に余裕があったり、楽しみの中に自分がいるといったような時には、心にもゆとりがあるので、やすらいだ心になることが可能なのです。