『人はささいな言葉に傷つきささいな言葉で癒される』

「血が出たら痛いってわかるのに、さっきな、おれ言葉でケガしとるんやわ」

これは、ある少年の詩です。

おそらく、誰かにひどい言葉で傷つけられたのでしょう。

私たちは、それが故意・不注意のいずれにせよ、他人にケガをさせて、その人が出血したり、ひどいときには骨折などしてしまったときには、その痛ましい姿を具体的に目にすることが出来るだけに、深く反省したり、お詫びの言葉を口にすることも可能です。

ところが、言葉で傷つけてしまっても、そのことを相手が口にしてくれなければ、なかなかその事実に自ら気付くということはありません。

また、身体的な傷は医療技術や時間の経過が癒してくれるものですが、言葉の傷は特効薬などないだけになかなか治りにくいものです。

その一方で、私たちはさりげない一言がとても嬉しかったり、時には自分の一生を決定付けるような言葉に出会うことさえあったりします。

あるいは、自分では特に意識しないでかけた言葉であっても、聞いた人の心の琴線にふれて、その人の心を癒したり、大きな力になっていたりすることもあります。

同じ言葉であっても、他の人を傷つけたり、癒したりすることがあるのは、表現は同じであっても、その人との関係性で受け止められ方が異なっていたり、聞く人の思いや心の状態が様々であるからです。

時折、テレビドラマなどで耳にする

「死ぬほど好き!」

という言葉。

愛する人から言われると嬉しいものですが、それが見知らぬ人からの突然の告白だったりした場合、聞きようによっては

「自分を好きになってくれなかったら、死んでやる!」

といった

「死をほのめかした脅迫?」

と取れないこともありません。

また、そういう人からいきなり

「いつでもあなたを見つめています」

などと言われたら、思わず

「ストーカー宣言?」

と恐怖すら感じてしまうのではないでしょうか。

このように、愛のメッセージもひとつ間違えば犯罪にもなりかねません。

そうすると、日頃、何気なく使っている言葉でも、聞きようによっては相手に全く違った意味にとられていることがあったりしているかもしれません。

反対に、何気ない一言が誰かの人の心を癒したり、生きる勇気を与えていることがあったりしていることもあるでしょう。

人間が他の生きものと決定的に違う点は、言葉を持ち、その言葉を使ってものを考え、お互いを理解し合っていることです。

言葉は、ひと度使い方を誤ると、凶器にさえなりかねません。

けれども、真心を持って語るとお互いの絆を深め、心を豊かにしてくれます。

あなたは、日頃何気なく口にしている言葉が、時には人を傷つけているかもしれないこと、そして生きる勇気となっていることに…、気が付いていますか。